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ちゃくま・我が家流シンプル、ちょっとミニマム、家事も家計も整理収納も思考も簡単に。

洋服の制服化で他人に不安を抱かせない

洋服を限定的にするのは構いません。ですが、装いを見る相手に余計な負担を与えない配慮が必要です。最近注目されている「洋服の制服化」は、日々のコーディネイトの悩みに革命をもたらすのでしょうか。

 

本来、選べる自由は楽しいはずです。ところが、選択肢が多いほど私達を悩ませる現象が多発しました。そんな折、「押してダメなら引いてみな」のように、「たくさんあってダメなら減らしてみな」という方法が編み出されました。

ジョブズは無理でも、学生なら誰でもなれる

ヒントはスティーブ・ジョブズやピカソやオバマ元大統領・・というより文字通り「制服を着た学生」です。制服を着た学生は、「少ない枚数の服(制服)」で、なおかつ「いつも同じ(制服)」なのに、他人に違和感をまるで抱かせません。誰もがスティーブ・ジョブズやピカソやオバマ大統領になれるわけではありません。ですが学生を摸することなら可能です。

 

それどころか、制服さえ着ていれば日常生活から、冠婚葬祭の全てに出席可能です。制服自体は決して「着やすさ」はありません。学校指定のジャケットやシャツやスカートやスラックス、リボンやネクタイは、それなりに独特の窮屈さがあります。けれども、そこは多少妥協すれば、「いつも同じ」でも誰にも文句を言われない服装です。

何を着れば他人に違和感を抱かせないか

私達の洋服の悩みとは第一に「何を着れば他人に違和感を抱かせないか」につきます。「素敵、おしゃれ」と思われれば本望ですが、下手をすれば「あの格好は何?」と思わせる危険をはらみます。

誰も大きな声では言いません。とは言え、「素敵、おしゃれ」と思われたい気持ち。「変(ヘン)」と思われない。そして自然に他者の中に溶け込むことを目的としています。さらに「素敵、おしゃれ」と思われることに成功すれば「他者の中の自分」のポジションは有利です。おしゃれは自分自身が楽しむ事はもちろんですが、他者の中の位置を決定する要素を含むことを誰もが薄々感じとっています。

何を着れば自分が安心できるか

洋服の制服化は、「何を着れば他人に違和感を抱かせないか」と同時に「何を着れば自分が満足するか」ともうひとつ「何を着れば自分が安心できるか」を限定的にする動きといえます。

どんなに必要なことでも費やすエネルギーには限度があるからです。その点、学生の制服のように「毎日同じ」でも誰にも文句を言わせなければ最適だというわけです。

ただ、洋服の制服化には、ひとつ欠点があります。それは学生が身に着ける制服と、一般人が個人的に身に着ける「制服化した服」とは客観的な一般の認識がないことです。

学生は毎日同じ服でも、決して無頓着から同じ服を着ていないわけではないことを誰もが知っています。お金がないから、同じ服を着ているのではないことも誰もが知っています。それに対して、一般人が個人的に同じ服を毎日着ること、それは日本の中では滅多にないという認識が浸透しています。普通は、毎日違う服を着るものなので、そうではない人は特別な事情があると誤解される危険があります。

 

もっとも、現代日本では洋服を安く手に入れる手段はいくらでもあります。だから厳密にいえば「お金がないから洋服を買えない」ということはありえません。ですが昔の認識が根強い人は多いのです。いつも同じような服装をする人は服を買えないか、よほどの横着ものだろうと考える人はまだまだ多数のようです。

他人から「どう見えるか」は配慮でもある

他人からそんな風に誤解されても、誤解は誤解だと放置すればいい。一瞬、そう考えそうになります。けれども、ちょっと待ってください。例えば友人の結婚式に出席するとしましょう。そのとき大事なのは祝う気持ちです。でも祝う気持ちが大事だからジーンズで出席しても良い?ということではありませんよね。やはり会場にふさわしい服を着るのが常です。

祝う気持ちがあれば「何を着ても構わない」それは建前なのです。友人を祝うために朝早く起きて髪を美容院でセットしてもらい、何日も前から着ていくワンピースを購入します。そうした出費も含めて「祝う気持ち」全身で表します。だれも逐一口にはしませんが、気持ちを表現するとは心の中だけの問題ではないことは多いのです。

諸外国の場合は、それぞれの事情により洋服に対する認識が異なります。重要なのは、「ここは日本である」「現代である」という現実です。建前はありますが現実は周知の認識が存在します。結婚式の会場に普段着で行ってはいけない決まりはありません。けれども、仮に普段着で行ったならば、常識がないか、主催者に妙な考えがあると取られてしまいます。洋服は、少なくとも日本国内において「場にふさわしい服装」をするのが相手への敬意や思いやりに通じるのです。

 

冠婚葬祭だけではありません。確かに現代は物を大切にしなさすぎます。日本人はまだ傷んでいない洋服を頻繁に買い替えては環境に負荷を掛けている可能性を考慮しなくてはいけません。一方で、日本人が経済を生み出している一面があります。(労働環境や賃金が見合っているかなどは課題があるにしても)洋服に関する課題は放置して良い問題ではありませんが、人が「装いたい」と思う自然な欲求を排除する事と同意義ではないのです。そこは改善と対策を練らなくてはいけませんが否定するだけでは向上がありません。

装いは「配慮」でもある

洋服の制服化が功を奏するためには「他人に不安を抱かせない」ことです。経済事情を心底心配させ、常識や慣習について違和感を抱かせない事です。確かに基本的に服は何を身に着けてもいい。けれども、それがそぐわない場面と他人に与える影響は少なからずあります。直接、害がなくとも、「お金がないのだろうか」「洗濯しているのだろうか」「何か変わったこと起きたのだろうか」という憶測の中には「心配」も含まれます。

服装を考慮するとき、「見栄」のように見える装いが「思いやり」に通じることもあるのです。「洋服の制服化」は自分を見る他者にそうした負担を与えないことが大事です。服を限定するのは構いませんが、こうした客観的配慮を忘れないことが必要です。