簡単に暮らせ

ちゃくま・我が家流シンプル、ちょっとミニマム、家事も家計も整理収納も思考も簡単に。

ゲームをクリアするように本を読もう。そんな読書があっても全くかまわない。

私にとってのゲームは本だった。最近、そう気づきました。ゲームは全くしませんが、それは媒体が違うだけで私はゲーム好きだったのです。私にとってのゲームは本。一般的なゲームはゲーム機とゲームソフトです。扱う物は違いますが、概念と目的は似たような側面があります。もちろん、ゲームも本も向き合う人の目的によって、ゲームとなり得たり成り得なかったりはします。

読書の目的は何でも良いのです。ときに読むこと自体が目的になっても構いません。かつて私は読書にノルマを課したことがあります。きっかけは、日垣隆氏の著書でした。

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ノルマを課す読書も醍醐味が見えてくる

日垣氏は、学生時代「新書全読破」のノルマを課したそうです。(この先は、うろ覚えです)記憶によると、普通の人間が何かに秀でるにはそれなりの行動が必要だ。新書を読破するくらいのことをしなくては。・・のような内容だったと思います。氏は、一日1冊以上新書を読むノルマを課します。それこそ、熱があっても読んだそうです。疲れた日は薄い軽めの本など調整はしたようです。

私は偉くこのエピソードに感激しました。「平凡でも数をこなせば何かに秀でる可能性はある。」と言ってもこの当時、新書全読破のマネはしなかったのですが、「気になっている作家の作品を全読破する」ことをいくつか試みました。

実際にやってみると想像以上に過酷な面はありました。けれども、後悔はしていません。本を読む事も何かノルマを決めて読むというスポーツやゲームのような読み方もあるのだと新鮮な刺激を受けることが叶いました。

読書はスポーツのようでもありゲームの全クリアのようなものとしての向き合い方もあるのです。「何かわからないけれど、自分の状況に風を入れたい。」そんなときは読書を課すこともひとつの策です。

第一、本を買う費用が必要です。図書館から借りる、古本を読むという手がありますが、なぜか私は「読みにくい本ほど新しい本でないと無理」という傾向がありました。推測ですが、借りた本や古本は本という情報以外の情報が邪魔をするからです。臭い、紙の色褪せ具合、などその本自体が物として持っている情報です。それに比べて真新しい本は基本的に文字そのものに集中できます。相応の費用はかかりましたが、それは自分への投資と割り切りました。

第二に、想像以上に読書は体力と時間が必要でした。長時間、細かい文字を見つめ続ける体力です。これは若い年代の時にできるだけ済ませておく必要があったんだなと、この時痛感しました。読む時間を確保することも必要です。やらなくてはいけないことをこなしつつ、どうやって読む時間を確保するか。それが必要でした。

第三に、精神的に平穏な状態で向き合う事の必要性です。気がかりや心配事があると、読書どころではなくなるからです。つい、余計な事を考えてしまい、集中できません。

さいごに

こうしてみると、読書は娯楽、学習、情報収集である反面、自分をコントロールするためのツールとなり得るのです。例えば座禅などがありますが、本を読む事によって「読む自分」を見つめてコントロールしていく。そんなやり方もあります。