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第2回ウェブ読書会補足『秋の筑波山/大町桂月』数行から見える広大な時空

第2回ウェブ読書会の題材に選んだ「秋の筑波山」ですが、昔の話だし、分かりにくい箇所があります。そのため内容を確認しながら読んでいくと段々面白くなってきました。といっても現在、まだ前半しか細かく確認はしていません。また歴史に関する記述は奥が深くちょっとやそっとじゃ全容を把握することは困難です。教科書程度に最小限の情報を仕入れるだけでは、前後や周囲の関係などがあるから不十分です。しいて言えばこの作品に記載された歴史の記述で大町氏の考えと価値観がある程度わかるということでしょう。

はじめ「短い作品だし筑波山を題材にしているってことは山のどこそこがきれいだ、とかそんな内容だろう」と軽く考えていたのです。実際表向きはそんな感じです。でも実は短い文章に正確に的確に歴史の概要が記されます。同時にこれを書いている大町氏の人柄や当時の情景が浮かび上がります。この作品を読んだら、筑波山にもう一度行きたくなりました。正確には筑波山より、ここに描かれている史跡ですね。タイトルの割に肝心の筑波山はさらりと書いてあります。

秋の筑波山・大町桂月(青空文庫より)

今回は、この作品の冒頭を確認しました。

秋の筑波山

大町桂月

一 関城の趾 東京の人士、し土曜日より泊りがけにて山に上らむとならば、余は先づ筑波登山を提出せむとする也。 上野より水戸線に由りて、土浦まで汽車にて二時間半、土浦より北条まで四里、馬車にて二時間、北条より筑波町まで一里、徒歩して一時間、都合六時間以内の行程、これ東京よりの順路なるが、上野発が午後二時二十分なれば、途中にて日が暮るべし。山に上らうといふ者は、それくらゐの事は辛捧しんぼうせざるべからず。筑波山麓より筑波町まで、ほんの五六町の坂路也。筑波町に着きさへすれば、旅館四つ五つあり。その夜一泊して、翌朝山に上るべし。往復五時間あれば十分也。筑波町にて午食して、昨日の路を帰るとすれば、土浦まで歩きても、その日の中には、東京に帰らるゝ也。 ことしの九月二十四日と二十五日と、休日が二日つゞきければ、三児を伴ひ、桃葉をあはせて同行五人、上野より日光線に由り、小山にて乗りかへて下館に下る。下館より筑波町まで五里、大島までは馬車通ず。されど、我等は下妻さして行くこと二里、梶内より右折して関城の趾を探り、若柳、中上野、東石田、沼田を経て、一時間ばかりは闇中を歩きて、筑波町に宿りぬ。全二日の行程なれば、筑波登山の外、関城趾の覧古らんこを兼ねたる也。
青空文庫 秋の筑波山より引用

 

この作品は1944年明治22年発表された作品です。今から73年前ですね。

作品の行程を検証してみました

上野より水戸線に由りて、土浦まで汽車にて二時間半、土浦より北条まで四里、馬車にて二時間、北条より筑波町まで一里、徒歩して一時間、都合六時間以内の行程、これ東京よりの順路なるが、上野発が午後二時二十分なれば、途中にて日が暮るべし。

上野駅より筑波町に行く行程が冒頭で書かれています。ここで冒頭から?だらけになりました。それは、この記述です。

上野より水戸線に由りて、

出だしから、訳がわかりません。そのあとの文章を読むと筑波に行くには土浦を経ています。それはわかります。でもなぜ、上野駅から水戸線に飛ぶのか。それがわからないのです。上野から土浦に行くなら水戸線ではなく常磐線ではないのでしょうか。「これは、もしかして水戸線の歴史に関係があるに違いない。」そう予測を立てました。

ちなみに現在(2017年)の水戸線はこうなっています。

東京より筑波山より北に位置している路線です。上野駅から土浦を経て筑波に行く行程はわかりますが、なぜそこに水戸線が出てくるのでしょう。そこで水戸線の歴史を調べてみました。

調べた所、現在の水戸線(JR東日本)は、元々は水戸鉄道という私鉄だったそうです。

水戸鉄道(みとてつどう)は、現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)水戸線及び常磐線の一部を建設、運営した私設鉄道である。1889年に開業し、1891年に日本鉄道に事業譲渡され、消滅した。 水戸線と称しながら水戸駅及び水戸市域を通らない路線となった

 

Wikipediaより引用

常磐線 最初の開業区間は、1889年(明治22年)に水戸鉄道として現在の水戸線とひとつながりで開業した友部(路線開業時は駅無し、1895年設置) - 水戸間である

この作品が書かれた(発表は1944年)時には水戸線は日本鉄道になったあとです。1909年に小山駅 ~ 友部駅間が水戸線に、友部駅 ~- 水戸駅間は常磐線になっています。

要は大町氏が言う水戸線とはイコール常磐線を差すと考えれば良いでしょう。あ~悩みました。とりあえず解決。それにしても現在の水戸線は水戸駅を通らないとは意外な知識発見です。

整理します。冒頭の「上野より水戸線に由りて、」とは、鉄道の名称が変わったと考えれば良いでしょう。だからここは普通に作品で言う「水戸線」は現在の常磐線を指すと思って読めば良いと解釈しました。

上野より水戸線に由りて、土浦まで汽車にて二時間半、

上野駅から土浦までは常磐線で行きます。現在はおよそ1時間15分前後の行程のようです。次に

土浦より北条まで四里、馬車にて二時間、

土浦から北条まで4里とあります。つまり16キロですね。この行程を馬車で2時間かかると言っています。グーグルマップに「馬車」はありません。徒歩を選択すると3時間20分ほどと表示されます。次に車を選択すると、このように40分と表示されます。行程の道のりは、およそ16キロです。これは合いますが、時間があいません。この作品の場合、「16キロの行程を2時間で進む」と言っています。この場合、速度はおよそ時速8キロです。時速8キロとは、かなりゆっくりペースのジョギングくらいですね。当然、自転車よりも遅いわけです。ちなみにママチャリでも平均速度は15キロ前後と言われています。馬車はママチャリよりゆっくり。歩くよりは速い。くらいの速度のようです。

北条より筑波町まで一里、徒歩して一時間、

次に、北条からは徒歩です。北条からは約4キロで、歩いて一時間ということですね。時速4キロですから、平均的な早さですね。

都合六時間以内の行程、これ東京よりの順路なるが、上野発が午後二時二十分なれば、途中にて日が暮るべし。

上野を出て、筑波町までの行程が約6時間とのことです。いやはや。ぐったりですね。上野を午後2時20分に出れば途中で日が暮れてしまうと言っています。

疲れる~と思っていると、作者に見透かされているかのように、こう言われます。

山に上らうといふ者は、それくらゐの事は辛捧しんぼうせざるべからず。

「はいっ。大町先生。失礼致しました。」

あ~注意されちゃった・・。と思っていると、すかさずこう言ってくれます。

 

筑波山麓より筑波町まで、ほんの五六町の坂路也。筑波町に着きさへすれば、旅館四つ五つあり。その夜一泊して、翌朝山に上るべし。

大町桂月先生は、さっき「疲れる~」と弱音を吐いていた読者に軽く注意を促しました。けれどもすぐに「大丈夫ですよ。筑波山のふもとから筑波町までは、少しだし、筑波町につきさえすれば旅館がありますよ。だから一泊して次の日の朝に上ればいいんですよ。」と優しく言って勇気づけてくれます。

大町桂月氏は、ちょっと厳しいところもありますが優しい人なんですね。

筑波山麓より筑波町まで、ほんの五六町の坂路也。

ちなみに、ここでよくわからない単位が出てきました。「町」です。調べてみました。「町」とは江戸時代の土地を表す面積の単位です。町(ちょう)、反(たん)、畝(せ)、歩(ぶ)があります。一町=1ヘクタールだそうです。このほかこんなデータも発見しました。

メートル条約加入後、1891年(明治24)1.2キロメートルを一一町と定め、一町は約109.09メートルとなった。

ということは1町で100メートル×100メートルですね。う~ん、歩く距離の話なのに面積で語るからわかりにくいですね。五六町。5~6町という意味でしょう。56なら五十六と書くでしょうから。(前後で判断)これは片道550~654メートルくらいだということでしょう。確認です。筑波山麓から筑波町(旅館などがある登山道のふもとの町)まで550~650メートルくらいってことですね。時速4キロで歩く大町氏なら、多少は登り道でも15分もあれば到着しそうです。

往復五時間あれば十分也。筑波町にて午食して、昨日の路を帰るとすれば、土浦まで歩きても、その日の中には、東京に帰らるゝ也。

肝心な登山は往復5時間で筑波山登りは十分だと言っています。「朝、登り初めて下山まで5時間。昨日、来た道を帰れば土浦まで歩いても、その日のうちに東京に帰る事ができる」と言います。

 

ことしの九月二十四日と二十五日と、休日が二日つゞきければ、三児を伴ひ、桃葉をあはせて同行五人、上野より日光線に由り、小山にて乗りかへて下館に下る。

ここでまた疑問が出ます。休日です。9月24,25日が休日とあります。という事は現在の休日とは違うことがわかります。当時の休日事情は明治元年は1と6の付く日。(31日をのぞく)けれども、欧米との交易に不便が出るので土曜の午後と日曜を休日としたようです。ここでまたひとつ、小さな謎が解けました。山登りになぜ、午前から出発しないで、午後に出発する話なのか。それがわかりませんでした。けれども、当時の休日事情を知れば納得です。おそらく、9月24日が土曜日。そして25日が日曜日なのでしょう。午前中の仕事を終え午後2時くらいに上野を出発するというわけです。上野を午後2時半に出れば宿について午後8時20分。真っ暗もいいところですね。到着9月24日と言えば日の入りは

東京で 日の出:05:29 日の入り:17:37

です。ただ、日付が旧暦の可能性があります。とはいえ、いずれにしても夜の8時過ぎは真っ暗に違いありません。

一日目の出発が午後では、ぎりぎりの行程です。けれども一日目が朝からの休日ならば余裕があると言っています。

ことしの九月二十四日と二十五日と、休日が二日つゞきければ、三児を伴ひ、桃葉をあはせて同行五人、上野より日光線に由り、小山にて乗りかへて下館に下る。

筑波山登山だけではなく、三歳児を連れて5人で上野から日光線経由で小山で乗り換えて下館まで下るそうですよ。三歳児連れとは余裕ですね。「桃葉」とは三歳児の名前なんでしょうか。別の何かを指す言葉?これはわかりませんでした。大町氏の娘?孫?三児とは三歳児なのか三人の子供、なのか。大町氏は1869生まれです。このときは1911年の数年前でしょうから42歳くらい。この時代なら孫でしょうか。亡くなったのは1925年なので56歳です。やはりお孫さんですね。

にしても、当時この年齢での山登りは健脚だったということではないでしょうか。アクティヴだったんでしょうね。2男は大町文衛(ふみえ)という昆虫学者だそうです。

この方は1,898年生まれです。大町桂月氏は1,869年生まれなので、29歳で生まれた方です。このとき次男と思われる息子さんが11歳とこの後の文で言っています。今の年齢の数え方なら、当時大町桂月は40歳くらい。数え年なら42歳くらいでしょうか。「3児を合わせて5人」なので3児は3人の子供という意味でしょう。桃葉といきなりここだけ名前が出るのは不自然ですので。とすれば5人の内訳は3人の子供、大町桂月、奥さんでしょうか。でも奥さんのことは全く触れません。だから推測です。

それでは上野発で日光線経由で小山乗り換え、下館の行程はこうなります。

下館より筑波町まで五里、大島までは馬車通ず。されど、我等は下妻さして行くこと二里、梶内より右折して関城の趾を探り、若柳、中上野、東石田、沼田を経て、一時間ばかりは闇中を歩きて、筑波町に宿りぬ。

下館から筑波町まで20キロで大島までは馬車がある。けれども私たちは(そこには向かわないし、馬車も使わない。歩くのです。)下妻まで8キロ・・歩きですよ。

下妻に行くと途中、関城跡に寄ります。下館か約10キロです。2時間かかります。歩きです。

若柳、中上野、東石田、沼田を経て筑波町です。この箇所で16キロです。4時間歩きですよ。いったい全部で何キロ歩いて?26キロですね。6時間は歩いています。

一日目はこれでおわりではありません。

一時間ばかりは闇中を歩きて、筑波町に宿りぬ。

結局、一時間暗いところを歩いて、やっと宿です。ところがところが、大町先生。パワフルです。「あ~やっと宿だよ。真っ暗だよ。疲れたよ。明日の朝は早そうだよ。」と弱音を吐きそうなのに、こう続けます。

全二日の行程なれば、筑波山登山の外、関城跡の欄古を兼ねたる也。

さいごに

「蘭古」の意味がよくわからなかったのですが、大町氏はここまで来ても疲れるどころか「せっかくだから、史跡を訪ねるよ」と言っているようです。まだ数行ですが、意味を確認しただけでも大町桂月氏の人柄が見えるようです。年はこの時代にしたら年配の部類なのでしょうがシャキッとしています。少しものんびりぼけ~っとなんてしていません。

段々面白くなってきたのでもう少し、別記事に続きます。