簡単に暮らせ

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優しさは連鎖する。より厳しくより、より優しくがもっと必要な理由。

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厳しさは意味がありません。それより多くの人に必要なのは優しさです。私が子供の頃から20代、30代の頃は世の中全体がスポ根でした。(スポーツで奮闘している方が悪いという意味ではなく、あくまで例えです。)実際に子供向けアニメ番組はスポ根もの全盛期でしたし。

他人発(身内含む。自分以外)の厳しさは、まやかし

一方で「優しさは甘えを助長するものであり、甘えてはいけない。必要以上に優しくすればつけあがるからダメ。」そんな風潮が大きかったのです。もちろん、そこには「相手のためを思って」という愛情があることになっています。

もちろん、これはそれぞれが置かれた環境により差はあるでしょう。けれども、私の年齢になったからこそ見えることがあります。相手に対する過剰な厳しさ。それは多くの場合は高い確率で まやかしに過ぎないという事です。

自分が年齢もそこそこだった以前、理不尽な対応をする人には「これは私のためなんだ。」と信じようとしました。けれども今になってみれば、それはまるで違うとわかります。

過剰な厳しさとは他人が課すものではありません。(身内も含む。自分以外の人という意味)厳しさが効力を発揮するのは自分が自分に課すものだけです。例えば「オリンピック選手が自分で自分を厳しく鍛錬する。」そうした厳しさは本物でしょう。一方で自分以外の人間が課す厳しさ。これは9割以上がまやかしです。

もちろん、例外はありますが、厳しくしなくても相手は十分事を成し遂げることが可能です。こうした事実に確信を持つことができたのは、中年の恩恵です。

特に私くらいの年齢になると、もはや厳しい対応などは「今さら勘弁してほしい」と拒否反応があります。

それでも突発的に、偶然、厳しい態度をする人に出会ってしまうことが、ごくまれにあります。それはたいがいに置いて「相手を打ち負かしたい。」という心理から発せられる言葉による棘です。もっとも、それは軽いやけどを負う様なものなので、気に病むことではありません。「ああ、この人はこれまで多くの棘を受け取ってきたんだろうな。」ということがわかるだけだからです。

優しさのある人が一番強い

一方で、なんでもないやりとりでも、ひたすら優しい方を見かけることがあります。例えば住んでいる地域の行政の窓口にいる女性は、とにかく優しいのです。その方の影響なのか、偶然なのかわかりませんが、同じ部署の別の女性もとにかく優しいのです。

行政の窓口ですから、普通に対応するだけで十分なのですが、何年かに一度、たまたま用事があって出向くと、いつもホワッと安堵します。そして「私もこの女性のようにならなくてはいけない。」と良いお手本を示してもらえたことに、有り難く感謝して窓口を後にするのです。

このように、何気ないことでも優しさは連鎖します。どうせ連鎖するなら優しさを連鎖したほうがいいに決まっています。優しさは、根っこが弱いと勘違いされることがあります。けれども実はそうではありません。優しさは地にしっかり根を張っていなければ実行不可能です。なぜなら自分以外の人に優しくするには、何より自分が安定していなくてはならないからです。

つまり他人に対して無意味に厳しい人というのは己に問題を抱えているのです。自分が不安定だからこそ他人に辛くあたります。

優しさには知力も必要不可欠

優しさとは実は奥が深いのです。なぜなら相応の知力も必要だからです。もちろん、まだ知力を伴わない幼児でも優しさを表現することはできます。一方で微妙な問題に差し掛かったとき、相手を正確に導くためにはやはり知力がなければ成し得ません。

実際に優しい人というのは、たいていの場合において聡明です。大人でも「知力はほどほどしかないが、優しい人」もいるのですが、このような方の場合は相手の行為を誤解することがあります。

優しさは相手を堕落させるのか

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ですが、よくここで問題にされることがあります。それは「優しくすると堕落するとか、つけあがる」という考えです。この場合は、優しさの種類が違う方を向いていたということでしょう。

同時に、厳しさという仮面をかぶった冷酷さも連鎖します。冷酷さは「相手のための厳しさ」という仮面をかぶるから始末が悪いのです。

けれども実際は厳しく(正確には冷酷)などしなくても十分です。優しさだけで伝わります。子供や若い年代の人が優しく対応することで、なめる、つけあがるとしたら、それは優しく当たり前に対応されることに慣れていないのです。

例えば間違った仕事をした相手には罵声を浴びせる必要はありません。冷静な言い方で十分伝わるからです。

ペットなど動物の場合は、初めに上下関係をはっきりさせるために大きい声で命令することがあります。これは相手が動物だからです。子供も、よほど幼いときは、毅然と注意しなくてはいけない場面はあります。そういった場面はあくまで例外ですが、人への対応は優しさというか、冷静に静かな口調だけで十分対応できるのです。

厳しさの仮面で大声を上げたり、罵声を浴びせたり、冷酷な態度をとったり、嫌味を言ったりと言った理不尽さは、単に当人が八つ当たりをしているに過ぎません。

人は進歩するから無意味な厳しさは淘汰されていく

世の中は日々、進歩しています。様々なことが「より良い方向」に進歩しています。誤った対応はどんどん淘汰されていくのは当然です。人は進化しているからです。

細かい例をごく一部挙げれば、例えば喫煙と禁煙が分煙されたり、過剰な残業の見直しが図られたり、学校教育の体罰が禁じられたり、宴会での酒の強要が禁止されたりと多数あります。とにかく理不尽なことは淘汰される運命にあります。

無意味な厳しさとは、結局は権力のある人間が権力を持たない相手に対する誤った態度に過ぎません。親であれば子供に。教師であれば生徒に。上司であれば部下に。先輩であれば後輩に。見せかけの友人間であっても暗黙のカースト状態の上下関係に。

「より優しく」でも世の中は回る

無意味な厳しさとは、進化と対極にある古過ぎる概念なのです。それよりも世の中全体に必用なのは「より優しく」です。互いが相手を思いやり優しくしても世の中は成り立ちます。

それは古い体制の在り方でなければ成り立たないと思うのは錯覚と思い込みです。人が多数集まって生きていくのであれば、互いが愛情をもって笑顔で暮らせるようにならなくてはいけません。

「そんなのは理想だ。きれいごとだ。」と言われようと、そのほうがみんなが幸せになれます。みんなが口元をへの字にした世の中よりも、口角が自然と上向きになる世の中の方がいいに決まっています。