「デジタル技術と国境」一見、関係がなさそうに思えることです。けれども
デジタル技術の進化が盤席だった国家の枠組みを揺らす
と今朝の日経新聞は説きます。
いったい、どういうことなのでしょうか?
続けて読んでみます。
デジタル技術が国境を超える役割を果たす例として、マレーシアの企業家ヌール氏の例を挙げています。
ヌール氏は「国家に左右されないコミュニティをテクノロジーの力で作る」ことに翻弄している人物だそうです。
氏は迫害されてマレーシアやバングラディシュに逃れた多数のひとり。国籍を失い自身を証明するすべを持たないのだそう。
そうなると、銀行の口座を開けず、学校にもいけない。
こうなってしまうと、一見八方ふさがりの様に思えます。実際、そうだと思いますが氏は
この技術を打破できる技術が現れた。ブロックチェーンだ。
と口調に熱がこもるそうです。
ブロックチェーンという言葉は、少し前に多くの人が関心を持っていました。書店に行けばブロックチェーンというタイトルが目につきました。
けれども最近は人々の注目が、日本では一時的に落ち着いていたかにも見えました。けれどもそうではなかったのですね。
従来、というか例えば日本の場合であれば、自身を証明する手段は国が間に入ることで可能です。それがなければ学校に行けないし、銀行に口座を作ることはできません。原則として病院にかかることもできません。(全額自費なら可能でしょうが、怪しまれるでしょう。)
こうしたことを、ふだん、私たちは意識することがありません。生まれたときから空気の様に概念を受け入れてきたからです。
一方で外国の一部の人は、そうした(日本でも一部の人は何らかの理由で苦悩している方もいるでしょう)概念が当たり前ではない人もいるのですね。
同時に現在の私たちが特に不便を強いられていないからといって、そこに問題がないとは言い切れません。
それは今回の新聞の事例が証明しています。問題のあるところには必ず人々が改善をしようと動き出すのは当然です。
今回の事例では本来は私達の利権を守るはずの国家が、逆に足かせになり自由に動くことが出来なくなる状態を表しています。
ところが仮想通貨のブロックチェーンの登場で、国家が間に入らなくても生きる術が見いだされたわけです。
さらに新聞記事は続きます。
「国家は丸ごとデジタル化できる」
と言う人物は企業家ダニエル・ガシュタイガー氏です。氏は母国の手続きを全てスマートフォンで済ませる事業を進めるそうです。
さらに東京大学名誉教授はデジタルとロボット技術で
「もう1人の私」が数千キロメートル先で仕事をする未来を語る
そうです。様々な技術の進化が物理的な距離や国家という概念を飛び越えてしまうのですね。
改めて考えてみれば、国という概念は正しく人の利益となり機能してこそ意味があることです。足かせになるのであれば、存在そのものの意義が揺らぐのは自然の成り行きと言えます。
こうした記事を受けて思い出しました。堀江貴文氏が著書でもときどき語っていることです。
そもそも、国家自体がヴァーチャルだということです。概念を多くの人が信じて指示するから成り立っているだけのことです。
世の中にはヴァーチャルだけど多くの人が指示しているから、それとはあまり意識しないことは結構あります。宗教もそうですし、お金もそうです。新年というのもそうだし、初詣も大晦日も一年の始まりと終わりというのも、人が決めたヴァーチャルです。
考えたら負け 今すぐ行動できる堀江貴文150の金言 (宝島社新書)
もともと「国境を超える」という言い方は文字通り、国と国の物理的な境目を差していました。日本なら関所ですね。けれどもこれは、もともと人が決めた概念です。
こうしたことも、人々の利益になりプラスに働くのなら、たとえヴァーチャルな概念でもそれは必要なことです。
けれども足かせになるのであれば、技術の進化で淘汰される方向に動かざるを得ないのは自然の流れなのでしょう。