真言宗の住職さんが書いた本です。
書店で目に入ったので買ったのですが、帰宅して何げに本の後ろを見て驚きました。
アマゾン 気にしない練習: 不安・怒り・煩悩を“放念”するヒント (知的生きかた文庫)
この本、何と52刷されています。
今の時代、重版されるのは1割程度、もしくはそれ以下と言われています。
そうした中にあって、この本はとてつもないベストセラーだったのですね。
これだけ売れているということは、裏を返せば「気にしてしまう」人が多いということでしょう。
同時に、「気にしてしまうことを気にして」悩んでいる。
ドツボにはまって抜け出せない人が多いのでしょうね。
こちらは真言宗の住職さん方が書いた本です。
宗派の違いは正直、わかりません。
ただ、仏教の住職さんがお悩み解決的な本を書かれている物はよく目にする気がします。
また、少し前にはテレビで若い女性がお寺に行き、住職さんに悩み相談をしているような様子を目にしたことがあります。
考えてみれば、仏教はカジュアルなとらえ方をした場合、
「マイナスな心を取り除く」
ことを探っていく場、ともとれるのではないでしょうか。
厳密に言えば、
「本来の仏教とはなんぞや?」
とか
「仏教とはこういうことであり、それは正しくない。」
というような見解はあるでしょう。
けれども、たとえ解釈がずれていようとも、結局は解釈した人の解釈が生きて動いていくのには違いありません。
「もともと」は人に認知されなければ、それまで。・・なのです。
だから本来の仏教とたとえ違う解釈があったとしても、人々がみずからの解釈で納得いく答えが出たのであれば、それが正解なのです。
だから以前見た、テレビで取材されていた「お寺に相談しに行く若い女性」のように、お寺をカジュアルに活用したって何ら構わないと思うのです。
さて、この本が売れているということは、「気にしてしまう」人の多さがあらわれているということですね。
さて、特に印象的だった項目を紹介します。
いちいち「意味」を深く考えない
私たちはついつい、現象に意味を求めてしまいます。
けれども犬や猫や鶏や虫は、つまり人間以外の生き物は、「意味」の存在すら知らないように見えます。
「それは果たして、どちらがしあわせなのだろう。」
ふと、そんなことを思うことがあります。
友人が飼っている犬は、飼い主である家族が帰宅した、現れた、ただそれだけで全身で喜びを表現しています。
散歩中に見かけた野鳥は、草を刈った後の芝生に大量のエサ(おそらく虫)が見つかったようです。喜々として、予想外の豊富なエサに喜びを隠しきれていないように見えました。
このように、人間以外の生き物にも、当然感情はあります。
けれどもそれは、今、目の前の現象に対して沸き起こっているものです。
おそらくは過去や未来に思いをはせている生き物は、世界広しと言えど、人間だけなのではないでしょうか。
確かに過去を振り返れば、嬉しい思いにひたることもできます。
一方で過去のいやなできごとさえも、うっかりするとひたってしまいがちです。
もちろん、こうしたことは生命の危険を察するうえでは有効だったのでしょう。
けれども実際は、そうした機能が、「今、ここにあらず」に陥ってしまいます。
つまり「気にしてしまう」という誤った使われ方をしてしまうのでしょう。本来、これは命の危険、例えばクマやオオカミに狙われるかもしれない危険を回避するために設けられた「過去の記憶」を呼び起こす機能だったはずです。
けれどもこの章では、「意味などない」という言い方はされていません。
ですがたとえ話を通じて受け取った真のメッセージはそれです。
つまり「意味はない。」という結論です。
意味はない、ということを知ることが、ある人の状況によっては絶望に解釈してしまいかねません。だからこそ、この本の著者はストレートな表現を避けたのだと察しました。
こうしたことからも、この本の各項目は、「気にしてしまう」人が手に取ってもダイレクトにガツンと衝撃が大きすぎないやわらかさがあります。
気にすることがいつもあり、心が疲れているようなときは、このような本を読む事がラクになれるきっかけになるでしょう。