物が少なかった昔の人は、現代みたいに年がら年中掃除なんてしていない
物が少ないと言えば、昔の日本人のことが取り上げられます。けれども、「昔の日本人は現代みたいに年がら年中、掃除なんてしていなかった。」そうです。だから年末に「大掃除」が必要だったのです。
現代は、昔より物だけでなく家事の負担も増えている
けれども現代は、普段もこまめに掃除機をかけたり、フロアモップでホコリをとったり常に掃除のことを考えていますよね。そして普段も掃除をしているのに、さらに年末には大掃除をするわけです。掃除だけじゃなくて、料理もそう。
少なくとも庶民は、その都度食器を洗っていない
食べるものは、毎日同じようなもので、食器をその都度洗ってなどいません。少なくとも下町の庶民はそうだったようです。上野にある下町風俗資料館には庶民が食事に使った箱膳が展示されています。箱膳とは、ふたのついた一人分の食器棚兼食卓です。食べ終えた食器は最後にお湯を入れて汚れを掻き落とすようにしながらお茶代わりに飲み干してそれで終わりだったのです。
油などを使わないこともありますが、昔よりも今の方が家事全般が複雑に大変になっているように思えてなりません。
「物を減らした見返り」など要らない
しばしば目にするのが「物を減らすと家事全般が楽になる」という話です。物を減らす事が注目されていますが、取り入れようかどうしようか、と迷っている人がいます。それは「物を減らしたら得するだろうか。」と疑心暗鬼になるから迷うのです。「物を減らすと家事が楽に・・」という話は「得するために持たない暮らしを取り入れたい。」人には圧倒的な説得力を持つでしょう。けれども、どんなことにもデメリットはあります。
物を減らす事を選ぶ人は、そのリスクも考慮しつつ取り入れているわけです。将来において物を減らしたことが良い方に向かうかそうでないかは誰にもわかりません。
ある意味、物を思い切って減らしている人は大きな賭をしている状態でもあります。減らしたことで得をすることもあれば、損をすることもあります。どんなことにも両方の可能性があります。
「物を減らしたメリット」にばかり言及するのはナンセンス
そうした中で「物を減らすことのメリット」つまりは「見返り」ばかりを要求するかのように、「減らしたらどんな風に得するの?」と言わんばかりに「得する可能性」ばかりを求めるのはナンセンスです。
ある意味「趣味」と似ている
物を減らしている人と、たくさん持ちたい人の感覚の違いは、「趣味」と似ています。趣味は自分が好きなことについては言っていることが理解できるし、共感できます。けれども好きではなく、興味のない趣味には言われていることが理解できないし、共感もできません。
要は、物を減らすも減らさないも、それぞれの価値観の違いであるので、実行するもしないも、その人次第ということです。そして重要なのは、全てにリスクがあり、万が一リスクが上回った場合にはそれを選んだ自分の自己責任なんですよね。