物を減らすときに他人の視線を気にしすぎては前進できません。「物を減らす」とは自分がなんらかの変化を決心することです。何らかの変化を望むから物を減らすという行動を起こそうとしているのではないでしょうか。
それは従来の自分の大半をリフレッシュする意味もあるはずです。ところが、物を減らすことは、まだ多くの人は抵抗を感じます。だからこそ、できればひっそりと目立たないうちに実行するのが良いのです。周囲の人は自分が知らない間に身近な人が変わることを警戒します。それは自分が置いてけぼりを食らうのではないかという不安があるからです。
これまで、数回引っ越しを経験しています。その時々で物の持ち方の感覚が変化しました。最初の分岐点は20年ほど前でした。けれどもこの時は「持たない」事に気づきながら友人の反応をきっかけに普通に戻りました。つくづく思いますが、このころは他人の反応を気にしすぎでした。
これまで、数回引っ越しを経験しています。その時々で物の持ち方の感覚が変化しました。最初の分岐点は20年ほど前でした。けれどもこの時は「持たない」事に気づきながら友人の反応をきっかけに普通に戻りました。つくづく思いますが、このころは他人の反応を気にしすぎでしたね。
「ちょっと・・(大丈夫?)」
それまで雑誌「美しい部屋」を教科書代わりにしていた私は、小物や布を駆使して部屋を飾っていました。また、当時はパッチワーク風キルトが流行っていました。カーテンも、ラグも全部柄物でした。ところがあるとき、急にその柄物をうっとおしく思いました。
理由はわかりませんでした。今ならスッキリしたインテリアに柄物はご法度であるのは常識です。けれども当時の常識はそうではありませんでした。「いかに多くの素敵な物で空間を埋めるか」それが正解とされていました。実際に雑誌「美しい部屋」をにぎわせていたのは、全てものと柄物で埋め尽くされた部屋でした。
「何かわからないけれど、落ち着かない」そう思った私ですが、まだ「捨てる」発想はありませんでした。そこで、何となく家具の配置を変える事を思いつきました。
それまで、部屋に入って一番目につくところに置いてあったリビングボードを、入り口の死角に置き換えました。そして、それまで家具があった場所は壁だけが見える配置になりました。一瞬、部屋に入ると何もないように見えます。その状態でしばらく暮らして満足していました。
ところがその住まいに、久しぶりに会う友人が訪れた時の事です。部屋に入った友人は、一瞬「ちょっと・・」と私の腕をつかみ絶句しました。ところがふと後方を振り返って、普通にリビングボードや物があるのを見て「ああ、びっくりした。」と安堵しました。
結婚してから初めて私の住まいを訪れた友人は、はじめ部屋に入って「何もない」ので、「経済的に問題があるのだろうか」と一瞬、心配したのだそうです。ところが入り口の死角に、普通に物があるのを見てやっと安堵したと言いました。
私はこの後、家具の配置を元に戻しました。そして「あまりに物がない様子を見せると、要は貧乏だと心配される」心配ならまだいいけれど場合によっては見下されるという可能性も学びました。そのため、それ以降は部屋をスッキリ見せることには消極的になったのです。
引っ越し直後みたい
それ以降、その住まいから引っ越しをして、いっときはかなり物が増えます。けれども、あるとき再び一冊の本をきっかけに物を減らし始めました。そして「スッキリ」「余計な物を持たない」ことに重点をおくことになりました。
そして、それから数年後に家を新築しました。(その家は転勤を機に数年前に売却済みです。)スッキリ見せるために台所の収納は、フラットな扉の作り付けでオーダーをしました。ハウスメーカーの担当の人からは、この感覚を不思議がられました。
「どうして中が見えない扉にするのですか?見えた方が使いやすいと思うんですけどね。みなさん、そうされますよ。」
「中が見えると、どうしても生活感が出るんです。市販の食器棚も探してみました。でも、収納力がない割に、半端な隙間もできるんです。それに、地震で倒れる心配もなくなります。」
と答えました。
この時ほどプロの意見が参考にならないと思ったことはありません。そのようにして、リビングと一続きの台所には、中が見えないフラットな扉の作り付け収納を設けました。実際に使ってみても収納力は申し分なく、中を適当にしまっても、扉を閉めればスッキリします。満足でした。
リビングダイニングには、3人掛けソファ、センターテーブル、ダイニングテーブルセットのみを置きました。テレビはとりあえず床に直置きしました。
そして友人が遊びに来たときのこと、反応はそれぞれでしたが、ある友人は思ったことを遠慮なく言う人。そして「はあ~何だか引っ越してきたばっかりって感じだよね~」と言いました。つまり、物がないってことです。
無いと言っても、ソファは3人掛け、センターテーブルもあれば、ダイニングテーブルとイスもあります。十分、物があるのですが、ふと思い出したのは、その友人の実家です。割とリビングダイニングのサイズ感と間取りが似ていました。
だから、自分の実家と比較して物がないと感じたのだと思います。そして「物がない」事に関する反応は決して好意的なものではありませんでした。呆れているという感じです。
実際に、余計な物を持たない考えは、このころに確立していました。けれどもこの当時は、それでも今よりかなりものがありました。物はあったのですが、物に対して家の面積と収納箇所が大きいので、そうは見えてはいませんでした。
服はこれで全部ですか?私一人分より少ないですよ。
そしてその家を引っ越すときのことです。訪れた引っ越し業者さんの、おひとりはその当時、単身赴任していると言っていました。そして私たちの荷物の服の量を見てあまりに少ないというので驚いていました。
「えっ?服、これで全部ですか?私一人分の服の量より少ないですよ。引っ越し先で全部買いなおすんですか?」
「いいえ、これで全部ですけど。」
そう答えた私たちですが、それでも今よりかなりたくさん持っていました。それが一般的な感覚なんですよね。
服をたくさん持っていても、着ない服も持っているんですよね。当時はそんな風に言われた服の量ですが、それでも今の4,5倍ありました。
自分の事なのに、物の持ち方に世間の目を気をしすぎ
そして、物を厳選していくと「物の量は人それぞれ」という事を痛感します。ところが友人の反応や引っ越し業者さんの反応でわかるように、たいていの人は「普通はこのくらい持っているでしょう」というように、どこに基準があるのか不明な「普通」に合わせようとする傾向があります。
思うに「普通」の影響とはテレビです。テレビで映るドラマなどで、「普通」を「学んで」いるのです。本当はテレビに映る「普通」は一例であり想像の産物です。ところが私たちは、これを見て「普通は」このくらい持っていなくちゃいけないと、誤った認識を得てしまうんですね。
視覚情報というのは、余計なことを一言も発しなくても、そういう感覚を植え付けられてしまうんですね。テレビを基準にしながら、世間の普通に対してビクつきすぎなのです。そしてそういう不安は子供にも影響を与えます。
不便を強いられるならば、「持たない事で困っている人がいないか」と周囲を気にする必要があります。けれども、すでに十分なのに、自分は要らないとわかっているのに、「世間からこう思われる」事を気にしすぎです。もっと自由に物を持つ基準を決めて良いのではないでしょうかね。