「持たない理由」の質問が何度も繰り返される理由を説明します。
実は「持たない理由」を論理的に答えてもあまり意味はありません。理由は簡単です。「持たない理由」の質問する本音は「減らしたくない。」に、あるからです。
子供が勉強する意味を質問する本当の理由
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」
子供が質問する定番だそうです。子供が「勉強する意味」を親に問いているのですね。大人でも、子供がいない方でも、自分が同じような事を考えたことはないですか?
実のところ、意味をそのまま答えても、その子供は満足しません。どんなに正論を言っても、腑に落ちることはないでしょう。
理由は簡単です。
意味を問う本音は「やりたくない。」
その子供が「なぜ、勉強をしなくてはいけないのか?」と疑問を持つのは「勉強をしたくない。」という本音があるからです。
勉強をする意味を本当に知りたいわけではありません。本当に知りたがっていることは「勉強をしなくても良い理由」なのです。
例えば、勉学の意欲にメラメラと燃えていて、学問をすることに多いな喜びを感じている人が「勉強する意味」をわざわざ考えることはありません。自分が必要としていて夢中になっていることの「意味」を立ち止まって自問するケースはまれです。
飲食に飢えている人が飲む理由、食べる理由を問う事はない
同じように、砂漠で何日も水を飲めずにいる旅人が「水を必要とする意味」を考えるでしょうか。また、何日も食べ物を口にできずに空腹で今にも倒れそうな人が「食べ物を必要とする理由」を考えるでしょうか。
意味を考えるとき
意味、理由を考える状況は共通していることがあります。本音は「やりたくない。」と思っている場合です。やりたくないから理由を考えて、何とか続ける方に持って行こうとしているのです。同時に、理由や意味を考えられるというのは、まだ自分に余裕がある証拠です。
同様の事を最近の世間にあてはめると、似たような現象はしばしばあります。
例えば
- 何のために進学するのか?
- 何のために仕事をするのか?
- 何のために結婚するのか?
- 何のために子供を持つのか?
- 何のために片付けをするのか?
- 何のために物を減らすのか?
・・というように、です。
これらの質問を投げかける状況の本音は、このようなものです。
- 何のために進学するのか?
本当は進学したくない。もう、勉強したくない。
- 何のために仕事をするのか?
本当は、仕事をしたくない。今の仕事が辛い。できるならばやめたい。
- 何のために結婚するのか?
本当は結婚したくない。独身で気ままに暮らしたい。けれども親の手前や世間体がある。もしくは、結婚したいけれど、良い相手が見つからない。
- 何のために子供を持つのか?
本当は子供を持ちたくない。夫婦だけで暮らしたい。仕事にも支障があるかもしれない。けれども結婚したら、子供を持つのは当たり前と思う。周囲からいろいろ言われるかもしれない。
- 何のために片付けをするのか?
本当は片付けをしたくない。多少乱雑でも別に困っていないし気にならない。けれども、周囲では片付けブーム。片付けをすると何か得することがあるんだろうか?
- 何のために物を減らすのか?
本当は物を減らしたくない。多少物が多くても別にに困っていないし気にならない。反対に物を減らすのは不安だ。けれども、周囲では断捨離ブーム。物を減らすと何か得することがあるんだろうか?
「持たない暮らしの意味」は後付け
最近では、「持たない暮らし」がちょっとしたブームです。そして、しばしば「なぜ、持たない暮らしをするのか?」といったことが当人に質問をされています。それぞれの持たない暮らしをしている方は、「持たない暮らしはこんないいことがありますよ。」というメリットを答えます。
けれども、本当のところ、持たない暮らしをする人の本音は「何となくスッキリしたかった。」単にその程度のきっかけだと思うのです。たいていの場合、答えている理由は後付けです。
「持たない理由」を問うのは「本当はたくさん物を持っていたい」から
ところが周囲では「なぜ、持たないのか?」という質問を何度も投げかけます。それは「本当はたくさん持っていたい」という本音があるからです。物が少ないのは「持たないのではなくて、持てないからだろう?本当は。」という意地の悪い疑問を持っているケースもあります。
「たくさん持ちたい」と思う理由は簡単です。物がたくさんあることは、元々、裕福な証拠だったからです。もっとさかのぼれば、裕福であることとは、食料をたくさん所有していることでした。食料がたくさんあれば飢える心配が減ります。
つまりは、「たくさん持ちたい」という欲求は、「飢えない欲求」であり、生存するための本能だと思われます。
だから多くの物を持つことは自然な事でした。ところが最近、「持たない暮らし」を始めている人が目立つ理由として、それほど飢える恐れの現実味が薄れたせいです。
ひとつ、ひとつ突き詰めて理由を推測していけば、このように「意味」が見えてくることがあります。けれども考えるから見える事であって、初めに意味を追求しているわけではありません。
「何のため?」という疑問が沸き起こったときは、無理をしている状態であり、「本当はやりたくない。」という本音の現れかもしれません。無理をしていないか、よく考えてみると良いかもしれませんね。