私は現在、ツイッターを使っていません。理由は、シンプルです。「必要性を感じない。」それだけです。
以前はツイッターを使っていた
情報収集、連絡を取り合う、コミュニケーションに便利だし、災害時に活用できるなどの利便性はあると思います。数年前、5,6年くらい前だと思いますが、使っていたことはあります。
当時、ブログも書いていましたが、それとは別の名前で使っていました。当初、「すごい。」と思いました。例えば、ライフスタイル系の本の著者(当時はブロガー本はほとんどありませんでした。)の方とリアルにコミュニケーションが出来たりフォローをされたりして大いに感激しました。
ツイッターをやめた理由
それから、フォローされた方のツイートから、これまで知らなかった情報にいち早く気付くことが出来たので「これは画期的」と思ったものです。けれども、気が付けば、しょっちゅう、ツイッターから目を離せなくなっている自分がいました。
同時に、自分のツイートをしばらくしてから読み返すと、気恥ずかしくなりました。というのも、ひとつひとつは短いつぶやきですが、ある程度まとまったツイートを読むと、その人の価値観、考え、習慣、みたいなものが異様に把握出来てしまうのです。
もちろん、これをメリットととる見方もあることでしょう。けれども、「そこまで自分を全世界に向けて発信する必要があるのだろうか。」と疑問を抱いたのです。
同時に、ある程度フォローとフォロワーの数が増えてくると、結局、ツイッターの中の自分のポジションとは、リアルな世界の人間関係と同じであるという重要な事に気付きました。
当たり前のことなのですが、それは使ってしばらく経過するまでわからなかったことです。ツイッターを使用して、連絡を取り合ったり、コミュニケーションツールとして活用している方達を否定したりするつもりはもちろんありません。
必要と感じるものには個人差がある
けれども、どんなことでも、個人ごとに心地よいと感じる程度には個人差があります。食べ物や趣味に好き嫌いがあり、読む本に個人差があり、好きな色や服装、休日の過ごし方、職業が多様であるのと同じように、それが良いか悪いかという事ではなく、単に、続けるだけの興味と利点をそれ以上感じなかったというだけです。
「時代」を持ち出すのは「多数有利の原理」
しばしば、SNSの活用の有無に関しては「時代」というキーワードが持ち出されることがあります。今の時代にSNSを使わないのは時代遅れだという主張です。
確かに、時代遅れなのかもしれません。けれども、時代の流れとは、つまりは多数派の流れのことです。「多数が使用しているから使わないのはおかしい。」という発想です。これは注意が必要です。
というのも、その根底にあるのは「自分が使っているのだから、相手も使ってくれないと不便きわまりない。」という多数派という権力による圧力である側面があるからです。
必要があるのなら、私はツイッターをあっさり使用する
もちろん、私もビジネスや何かの集まりに関わっていて、ツイッターなどのSNSを使っている人が多く、それによって連絡を取り合っているようなものに関わっているのなら、私も使うと思います。
けれども、現在はその必要がありません。そのくらいの距離感で静かに暮らすことが現在はちょうどよいと感じるのです。
もしかしたら、状況が変わったりすれば、使い始めるということもあるかもしれません。前も同じようなことを書いた記憶がありますが、今だその考えは変わりません。
「みんなが使っている」と言われても必要ないものは必要ない。
特に大きな理由はなく「今はその時期にはない。」それだけです。今はツイッターを使う必要のない趣味に没頭していますので(ブログのことではありません。)たとえ「みんなが使っている」と言われても必要ないから使わない、シンプルにそれだけなのです。
ブログを毎日せっせと書いている私は、この本に書かれている「バカ」の一人だと認識しています。