物を捨ててスッキリしたい人、捨てずにとっておきたい人、程度にもよりますが、両方の人がいるからちょうどよいと思っています。
世の中には様々な価値観と感覚の人がいます。多様な価値観があるから良いのです。いろんな考えがあるから、突発的な事が起きた時に、対応することが可能なんです。
仮に世の中の全ての人が、みんな同じ価値観だったらどうでしょうか。その状況下ではうまくいくかもしれません。ですが、そういう環境は変化に弱いのです。
そして、世の中が白と言っている人が多い時に一人残らず白という世界は危険です。9割の人が白と言っているときに「そうは言うけど黒という考えもあるよ」という1割の人がいるから良いのです。
最近の状態は「物は捨てて減らして暮らした人がいいよ」と思う人が6割で「そうは言うけど、何かあったらどうするの。私は捨てずにとっておくよ」という人が4割いるから、急に何かあっても対応することが可能なんです。
「どう考えても『処分』が最善なのに、いくら説得しても了承してくれない」という場合、それは相手の考えが間違っているのではありません。相手には相手の価値観があります。
理論で説明しても納得してもらえない場合、相手なりの理論があるのですが、うまく言語化できないだけです。だから、「怒る」人もいます。
第一、自分が何か思い違いをしている可能性もあります。実際はどちらが絶対に正しいと断言できることは何もありません。
そういう風に意見が食い違ったときは、妥協点を探すことです。どうしても困っていること、それをお互いに提案して妥協できることを話し合っていくイメージです。
そして「捨てろ捨てろ」と言われると、「本当は、物ではなくて自分の存在が邪魔なのだろうか」と思わせることにもなりかねません。
特に年配の人は変化を嫌います。私も30代くらいの頃は、そういう部分をあまり気付けませんでした。ところが40代半ばにさしかかると、否が応でも身体的に少しずつ「老」が確実に近づいていると感じます。老いの行きつく先は生死の境目です。だからこそ、年配の人は変化を嫌うのではないでしょうか。
理屈では良い、自分のためになると言われてもそういう不安はプライドもあるから口にしにくいのではないかと思います。だから不安になるのではないでしょうか。
どうしても相手が拒否するなら、そっとしておくしかないのではないでしょうか。早いうちにスッキリできれば自分たちも楽です。けれども人にはそれぞれ考えがあります。
だからこそ、親などの片付けをする前に、まずは自分の身の回りを整えるのが先決なんだと思います。特に実家に置きっぱなしの物などもそうです。
物を厳選して少数精鋭的な持ち方が理想だと言われています。実際に私もできるだけ、そうする暮らしを目指しています。けれども核家族ですが、家族で住んでいますから、それは私の持ち物と台所用品などに限っています。
実際に、以前、大量に不用品を処分していたら、夫も子供もちょっと不安になっていたようでした。そして何か見当たらないものがあると「もしかして捨てた?」と言うのです。
おそらく、物を減らすことが良いと主張する人に対しての風当たりの強さの根源は「それがゆくゆくは人に反映されるのではないか」という恐れです。
少数精鋭が物ではなく、のちに人に反映されるのではないかという嫌悪感です。
だいぶ前に企業が従業員の一部の人に早期に退職を促す様子を「リストラ」という表現をしていたことがあります。これなどは、人を物のように少数精鋭を目指したがための現象です。
それと最近の物を減らす様子と重なって見えるから恐れと嫌悪感を抱く人が多いのでしょう。
実際に、物にはたいてい持ち主がいます。だから物を捨てる様子は自分以外の人から見れば「その持ち主の存在を否定している」様な気になっても当然です。
本来、物は物で、その人そのものではないのですが、一般的な感覚では年配の人ほど物と自分を連動させている感覚を持っています。
だからこそ、自分以外の人の持ち物を処分しようとするときには、物は物であって、その人その物を反映させているわけではない、ということを理解してもらう事が必要です。
けれども、実際には物を捨てている時には、人を捨てられないからうっぷん晴らし的に物を捨てている、そんな本音が隠れているケースもまれにあるかもしれません。それも、自分でも気付かないうちに、です。
こうしてみると、物の持ち方にタッチしないという事は、その人そのものを認めることなのだと思わざるを得ません。
増やすにしても減らすにしても、物の持ち方は、その人に対する許容の度合いが反映されているのです。だからこそ、家族であっても自分のものではない持ち物については「相手に任せる」事が基本スタイルなのではないかと思っています。