物を処分するときの「罪悪感」との向き合い方を紹介します。物を処分するとき、妥当だとわかっていても、躊躇してしまう人と、潔く処分できる人がいます。両者の違いは一体何でしょうか。
「捨てられない人」は優柔不断なのか?
処分をなかなか決心できない経験は誰しもあることでしょう。この傾向が特に強い人もいますが、ときに「優柔不断」と決めつける傾向があります。でも、本当に、理由はそれだけなのでしょうか。
物の処分と「同情回路」の関係性
池谷雄二氏の著書に、物の処分に罪悪感を持ってしまう理由として「同情回路」の話題が出ています。実はこれこそが、「物を擬人化してしまい、処分に罪悪感を抱いてしまう人」の原因であるという話です。
この本の中に、同情回路についての実験結果の話が出ています。実験内容は、悪人とされる人物が罰せられたときの脳の反応を男女別に視るというものです。
その結果、男女による差のデータがあるそうです。それによると、ほとんどの男性に「同情回路」の反応が消失していますが、女性の場合は消失したのは40%程度だったそうです。つまり、女性の60%は悪人であっても、罰せられることに対し「同情する」という反応を示す傾向が大きいということです。
そして興味深いのは、この反応は人に限定した反応ではないことです。物であっても同じ傾向があるそうです。
女性の方が、理由に関わらず「厳しい状態にある人」に同情する傾向があるということです。それに対して男性は、制裁の感情が優先する傾向にあるそう。(もちろん、個人差や状況によるでしょう)
そして著者は、物を捨てるときの「もったいない」と思う感情は、この「同情回路」が影響している可能性を説いています。
つまり、なかなか物を捨てられなかったり、処分に罪悪感を持ったりするのは、「かわいそう」と人に対するように物へも同情する反応をしてしまう事が原因だというわけです。つまり、物を潔く捨てられないのは「優柔不断」にばかりが原因ではないということです。
もちろん、潔く処分できる人に「同情する気持ちがない」という意味ではありません。
「捨てられない人」の反応
この反応は、きっと人にとって必要なものなのでしょう。だから、物を捨てる時に人ではなくても躊躇するのは、もともと自然な反応なのです。
本来、人の社会において、物や他人に同情する心理は必要なことです。ところが最近は、急速に物の量が増えすぎたために、こうした傾向のバランスがうまく対応しきれないのでしょう。
その結果、「捨てられない人」が問題視されるようになったのかもしれません。もちろん、ゴミ屋敷のようは極端な場合は、もっと何か深い事情があるのかもしれませんが。「同情回路」という、自然な思考の流れが影響していただけなのです。
ただし、そうは言っても「どうしても物を減らす必要がある」場面ではいつまでも「もったいない」「罪悪感がある」とばかりも言っていられません。
躊躇する気持ちが大きい時には「あ、今私の同情回路が働いているんだな」と思えば、割り切って物と向き合えるかもしれません。
同時に、身近な人が、どうしても多すぎる物を処分してくれないとき、「執着」とか「不安」ということもあるかもしれませんが、それだけではないということですね。
人に接するように物にも同情してしまう気持ち
物に対して、「人に同情するような気持ちが働いている」。そう思えば、なかなか処分してくれない理由も納得できるというものです。
当人も、どうしてそういう気持ちになってしまうのか、よくわからないでいることもあるかもしれません。そんなとき、理詰めで説得しても反感を買うばかりで、時に険悪な雰囲気になる事もあると聞きます。
それは、人として必要な「辛い状態にある人に寄り添う気持ち」を非難されたような気がするからなのかもしれません。
もちろん、潔く物を捨てられる人に、そういう気持ちがないということではありません。実際に、私も物を処分するときには、罪悪感を抱くこともありますが、同時に「これは割り切って罪悪感を振り切らなくてはいけない」と決心しながら処分に踏み切る場面は多々あります。
誰しも、いろんな側面を持っているし、罪悪感と決断のバランスの葛藤を抱えながら行動していると思います。
こうしてみると、物を捨てられない人を「優柔不断」と決めつけるのは早計だということがわかります。現代は、たまたま潔く物を捨てる人が認められる世の中です。けれども全く別の時代や価値観の中においては、そういう行動が必ずしも評価対象にはならないかもしれません。このように、人の行動の傾向は一方だけの見解では判断ができないデリケートな側面があるのです。