凝り過ぎると本来の目的を忘れます。片付けは「ほどほど」くらいがちょうど良いのです。
片付けに凝り過ぎて本来の目的を忘れる現象とは
特に主婦にありがち(私を含め)なことがあります。「よし、片付けをがんばろう!」と思ったとしましょう。そのとき、はじめは純粋に片付けのために片付けをしています。ところが次第に状況がエスカレートするのです。十分、片付いているのに、入れ物に凝ったり、ちょっとした配置に凝り過ぎたり、異様なまでに色や形の統一化を目指すということをはじめたりしがちです。
片付けをいっそアートの領域に高めるなら別だが
確かに、片付けを単に家事の延長線としてではなく、いっそ美学というか、アートの領域に高めてしまうという方法も、一つの選択です。けれども、それが単身世帯で自分ひとりの世界なら良いのです。ところが、よくありがちなのが、「ある日片付けに目覚めた主婦が、凝り過ぎて家族に厳しくなりすぎてしまうケース」です。
主婦(主夫)の機嫌を取るための片付けになっていないか
この場合、旦那さんは内心「やりすぎじゃない?」と思っても、おそらく面倒なので口にしません。子供の場合、性格にもよりますが、母親の機嫌が良くなるので、懸命に片付けます。ときに「これはもういらない」と言うと、さらに母親の機嫌が良くなるので、それを察して「もう、要らない」と言ってみたりします。
このようになってしまうと、家の片付けは、家族のためではなくて、主婦(主夫)の自己実現の場と化します。もっとも、ゴミ屋敷とか汚部屋よりははるかに良いといえばそれまでですが。
真面目で努力家の人ほど、気が付けばこのように盲目的に片付けを極めようとしてしまいやすいのです。
どんどん秩序が崩れるのが自然の法則
そもそも、この世の中にあるものは、自然に任せておけば、どんどん秩序が崩れていくという不変の運命を背負っています。それを縦横きれいにそろえ、決まった箱に収納するというのは、その自然で不変の法則に逆らうことでもあるのです。
だからこそ、物が存在すれば、それらは永遠に散らかり続けます。この世から片付けの問題が無くならないのは当然なのです。
もちろん、どんな世界にも「とことん凝る」ことで何かの気付きになり助けになるということはあります。だから片付けに、とことん凝ること自体、意味がないとは言い切れません。
年中、片付けの事を考えていたいか否か
ただ、一般的な普通の多くの人は、年がら年中、片付けの事ばかりを考えていたくないはずです。ならば、とことん凝ってもいずれ秩序は崩れていくのが自然の法則なのですから、「ほどほど」のところで手を打つのが賢明で合理的ともいえます。
考えてみれば「片付け」とは、ランダムになろうとする動きを秩序のある物、秩序のある物へと押し戻していく作業です。
本来、ランダムであるものに秩序を与えるわけですから、やはり何らかのむずかしさ、「何度やっても元に戻る」のは当たり前といえます。
何度やっても元に戻るわけですが、秩序の度合いが強いほど、元に戻った時の落胆が大きいはずです。同時に、ランダムに戻った物と強い秩序の中に押し戻す作業は大きな手間も要するはずです。
片付けは「ほどほど」で手を打つ
それが苦にならないのであれば問題ありません。でも、たいていは、「面倒くさい」と感じる事でしょう。この時感じる「面倒くさい。」は人の内面の問題というよりも、自然な物の動きに対する自然な反応です。けれども「面倒」と思ってすらいけないのであれば、ますます人は不自由になります。
だからこそ、片付けは、凝り過ぎず、はまりすぎず、「ほどほど」のあたりにキープするのがちょうどよいのです。
「ほどほど」であれば、そもそも秩序の度合いがそれほど強くありません。ですから仮にランダムに帰ったとしても、元に戻すことが容易です。同時に落胆する気持ちも少しで済みます。