「なぜ、物を減らすのですか?」
しばしば世間はこのように質問を投げかけます。結論を言えば、その理由など何でもよいのです。極端な話動機は不純でも構いません。
例えば
- 格好良いと思われたい
- お金をかけなくても優越感を抱けるかもしれない
- 「周囲と違う」という希少性を生み出せるかもしれない
- 世間の流行だから乗っかりたい
本音はこういうものだったとしても、非難する要素は全くありません。誰にも迷惑をかけていないからです。現在、何らかのことである程度の結果を出している人は、しばしばこのような事を言う事があります。
「最初のきっかけは、不純な動機だった」
成功話のもっともらしい動機は後付けのものが多い
もちろん、謙遜の意図もあるでしょうが、あながち全くの嘘というわけでもないでしょう。例えば
「好きな女の子に認められたかった」
「女の子からモテたかった」
これが動機だったとしても誰も非難などできません。ところが、人は動機を語る時に、耳あたりの良いエピソードを語りがちです。全てとは言いませんが、いわゆるもっともらしい動機やきっかけは、後付けもかなり多いと踏んでいます。
何かの行動をしたいと思った時、人は必ずしも合理的な事を選択しません。「なぜかわからないけど、こういう行動をとってしまった」という事は大いにあり得ます。
趣向や習慣の違いに理由はない
また好きな食べ物や、休日の過ごし方が違うことに大きな意味や理由があるとは限りません。生まれた時からの習慣や環境が影響していることもあるし、ある時に何となく興味を持って始めることなどもあります。
例えば日本人らしさ、欧米人らしさの違いなども、理由があるわけではありません。自然と周囲の環境などと絡み合ってそのような価値観が生まれているにすぎません。
登山する理由も後付け
このほか、登山が趣味の人に「どうしてわざわざ苦しい思いをして山に登るの?」と尋ねると「そこに山があるから」という答えしかしようがない、というのは有名なやりとりです。
それより長く語らせてしまった場合は、おそらく後付けで「健康に良いから」とか「気分が良いから」とか「達成感がたまらないから」とか「自然との一体感がたまらない」などという理由を答えるのです。けれどもたいてい理由とは後付けです。初めからそれを求めて山に登るわけではないでしょう。
物を減らすもっともらしい理由も、たいていは後付け
同じように「どうして物を減らすの?」という質問も同じです。昨年、嫌というほどネット上でこの種のQ&Aを見かけました。
その返答はいずれも、もっともらしいものです。登山をする理由を詳しく答える人と同じように、おそらくは後付けで理由を答えています。その理由は確かに間違いでもウソでもないでしょう。
けれども、何となく「物を減らした方が気分よく暮らせそうな気がする」本当のところ、多くの人はこのくらいの気持ちでスタートしているのではないでしょうか。
そして、この種の答えにはいつも、正当なものが用意されています。物を減らすことに限らず、自分が理解できない行動や価値観についても同様の質問がしばしばなされます。
これらに関するもっともらしい教科書的な返答も、実は多くの場合後付けです。けれども後付けだからと言って非難する理由はひとつもありません。
どうして山に登るの?
どうしてマラソンするの?
どうして地方に移住するの?
どうして大学をやめるの?
どうして会社をやめるの?
どうして故郷に帰らないの?
どうして仕事をしないの?
挙げればキリがありません。
物を減らすことに無理をして共感する必要はない
この手の質問は、質問の形式を取っています。ところが本質的な意図は質問ではありません。全てではありませんが、何割かは非難する目的で質問を投げかけている人もいます。
自分が理解できないこと、自分の価値観にそぐわない事に異論がある場合の「質問」という形式をとっています。一方で、不審を抱きつつも質問をしてメリットが多いようであれば自分も便乗しようと考えていることもあります。
けれども、メリットの方が多いと思ってから、重い腰を上げて実行するくらいなら、無理をすることはありません。人の価値観はそれぞれであり、全ての人が物を減らし始めるわけにはいかないからです。
違う価値観も存在を認め合う
ただ、これだけは言えます。自分と違う価値観を垣間見た時、たとえ共感しなくても、「そういう価値観の人もいる」と認めることです。同時に、流行していることでも、「何が何でも取り入れなくてはいけない」道理もありません。
物を減らす行動は、ある価値観に沿って行う事です。だから共感すれば、自分が実行しても良いのですが、そうでないのなら無理することはありません。
その代り、価値観が違う、理解できないという理由で非難をしないというのは他の減少においても共通することです。
さいごに
そして、世の中でビジネスや芸術、スポーツその他で一定の結果を出している人たち、この人たちの動機やきっかけも、ふたを開けてみると実はたわいないことであったりもします。
ですからなおのこと「物を減らす」程度のことに、立派な理由は不要です。「何となく格好よさそう!」という程度の動機でも何ら構わないのです。