「ミニマリストって何?」
聞きなれない言葉を聞くと人は本能的に定義を探ろうとします。既に様々なメディアでその定義の説明はなされています。ですから、ここで改めて説明することはしません。
そして「ミニマリストの定義づけ」より重要なことがあります。それは、どんな主観でも主義でも志向でも各自の受け入れる割合の「濃度には個人差があって当然」ということです。裏を返せば濃度100%の「主義者」の周辺では、しばしば「ひずみ」が起きがちです。
たとえ自分がその「主義」に強い信念を持っていても、それ以外の価値観がいる人も認めること、それが重要です。
言葉の意味にとらわれない
結論を言えば、人々の行動が先にあって後に発生するのが言葉です。実際は、人は言葉で思考します。ですから結局は言葉が先にある状態になりがちです。
人は言葉に沿って暮らすのではありません。だから「ミニマリストならこうでないとおかしい」とか、「ミニマリストはこういう部分に非難要素がある」という言及は不可解なことです。
だいたい、ミニマリストを日本で自称している人のほとんどは、たいてい他者の多様な価値観を認めたうえで独自の範疇で実践しています。
映像のインパクトだけに固執しない
ところがしばしば起きるのは、メディアという映像のフィルターを通したあとの偏った反応です。メディアの中心は「動く映像」です。ですから映像が映し出されると一番に、そのインパクトの印象が大きく人々の印象に残ります。そうなるといくら「各自それぞれである」という様な事をきちんと語り、書いてあっても多くの人は聞きません。読みません。
憶測で語らない、判断しない
ただ何となく、映像から受けるインパクトと、各自の推測でどんどん議論が進みます。
それはそうと、しょせん、言葉は人が作るものです。同時に人の行動や思考があってのちに言葉が生まれます。ですから、自分たちが生み出した言葉に縛られる必要はありません。
例えば、「ミニマリストというからには、『部屋に○○があってはおかしい』とか『○○があるのは物がダブっているからおかしい』とか『全然、がらんとした部屋じゃない』」と追及するのはお門違いです。
言葉の定義付けを繰り返さない
「ミニマリスト」という言葉は、2~3年前くらいから見かけるようになりました。ひとたび「定義」を認識するや否や「それはミニマリストとは言わない」とか「ミニマリストなら、こうであるべき」と言及がなされることもあります。
どんな主観も徹底的に原理を貫き融通の利かない思考を元に行動をとる人はいます。一方で、「その方向性にある程度共感はするけれど、徹底的に「何が何でも」とまでに徹底しない人」は多いはずです。例えば私は後者にあたります。また、家族は全く持ってごく普通の価値観の持ち主です。ですから強要して「捨てろ」という事はありません。当然、家の中はがらんとしていませんし、普通の家にあるものは普通にあります。
どんな志向でも方向性でも定義を徹底すると途端に融通が利かなくなります。そして必ず「ひずみ」が生じます。ある主観をどの程度取り入れるかは各自の自由です。
「ミニマリスト」という言葉の枠にはまらない
また、「ミニマリストを目指す」と決めた人が言葉のイメージにがんじがらめになることもあるようです。ひたすら物を減らし、「絵」的なミニマリストを目指している状態です。
果たして、誰も見ていないとしても、その状態を続ける気があるのでしょうか。もしかすると「センス良く部屋を飾るのは難しいけれど、ただ物を減らすなら私にもできるかも」という動機で物を減らしてはいないでしょうか。
最近は物が少ないと評価されやすい時代です。だからこそ実は「減らす」動機が実は他者の評価が原動力になっていることがないか自問してみることが必要です。
そして単に映像や画像によるインパクトだけで「その人の背景を憶測で判断しない事」も大事です。