「私はしあわせだなぁ」
と思えば、事実、しあわせです。
「どうして私はツイてないんだろう」
とか
「どうして夫は、わかってくれないんだろう」
とか
「どうして友人ばかり、うまくいくんだろう」
と思えば
事実、「しあわせ」とは言えない状態です。
本人のしあわせと客観的印象は同じではない
でも、客観的に見れば「しあわせだなぁ」と言っている人の方が実は大変そうで、「どうして~なんだろう」と「しあわせ」を感じられないもう一方の人の方が恵まれているように感じることがあります。
つまり、自分が今の状況に満足するのも不満を抱くのも全ては自分の気持ち次第ってことです。どんなに客観的に苦難そうに見えても本人が「しあわせ」と思っていれば事実しあわせなのです。
反対に客観的にどんなに恵まれていても本人が「しあわせじゃない」と思っていれば事実、しあわせではないのです。
「そんな、きれいごとみたいなことばっかり言っていないで。事実そうなんだから仕方ないじゃない。」
と思うかもしれません。
「他人を自分の思う通りにしたい」と思わない
けれども、まず、これだけは言えます。
第一に「しあわせ」と実感できる人は「他人をコントロールしよう」という意識が希薄だということ。これは共通していると感じます。
反対にいつも不足感があり、満たされない状態が強い人は「他人を自分の思う通りにしたい」という欲求が強いのです。
一方で、普通の人は他人にコントロールされることを望みません。だから、そういう意図を感じると拒否反応を起こしてぶつかり合います。
「私は、しあわせ」
と心から感じられる人は、他人を自分が思うようにコントロールしようとは考えません。他人の考えや行動には自分が思いもしなかった理由がある場合があるからです。
きっと、いつも他人の言動のマイナス点が気になって仕方がない方は、いつも心がざわつき落ち着かないことでしょう。
それは、相手の言動を自分の価値観のみで一方の視点から「こうに違いない」と決めつけて判断しているからです。
けれども現実はもっと多様です。他人の言動の理由は、当人でなければわかりません。他人の気持ちでも、「たいていの事は推測可能」だと思うかもしれませんが、当人でなければわからないものです。自分にその全容が見えていないだけで、「こうに違いない」と決めつけるのは考えものです。
「家事に協力的な、友人のだんな様」の例
例えばこんな例があります。
友人のだんな様は、仕事が多忙にもかかわらず、家事に協力的だそうです。ところがその、だんな様は、「家事を手伝っている」とか「協力してやっている」という意識がまるでなさそうだということです。客観的に見れば「奥さんは短時間のアルバイトに行っているだけなのに、そんなに家事をやっているなんて大変だね」と言われてもおかしくないほどです。
ところが、そのだんな様は、全く「やってあげている」という意識がないのだそうです。それどころが、この間は「俺ってしあわせだなぁ~」と言うのだそうです。嫌味でも何でもなくて、本当にそう思っているのでしょう。
さいごに
もし、このだんな様が「俺は家事をこんなに手伝ってやっている」と思った瞬間「しあわせ」ではないと感じることでしょう。
「私はしあわせ」
と思う事こそが、本当にしあわせになることなのです。
反対に、どんなに恵まれていても不満を抱いた瞬間、しあわせではない状態になるのも簡単なのです。