小型家電を買いに行きました。すると脇に居た店員さんが商品の説明を始めました。うんうんと聞いていましたが、一通り説明が終わったところで買う意思表示をしました。
「不器用な店員さんだな」
そう感じました。説明はわかりにくいし、こちらが既に購入を決めているらしいことに気付く様子もありません。
けれども、不思議に嫌な感じはしません。不器用で要領の悪い雰囲気に何となくホッとさせられたのです。と言ったら失礼ですが。
「あ、価格は頑張らせてもらいますよ。少しですが、このお値段にします!」
結局「頑張った価格」はアマゾンよりまだ1000円高い金額でした。けれども、すでに買う事は決めていたし、値引き交渉をする気もなかったし、特に問題もないので予定通りその家電を買って帰りました。
それよりも「ここで買って帰らなかったら、この店員さん困るんだろうな」という同情のような感情が沸いてくるのです。もしかしたら、それこそが既に販売戦略に乗せられている可能性はあります。
けれども、ふと思いました。もし、あの場にいた店員さんが「出来るカリスマ店員」だったら予定通りに買って帰っただろうかと。もちろん、買って帰ったでしょう。けれどもその場面では「出来る店員」である必要性はありませんでした。
確かに「出来る店員」でなければ購入時に困ることはあります。商品知識が皆無だったり、明らかに不快な対応をされた場合です。
こうしてみると一見、スタッフはテキパキしていてコミュニケーション能力に長けた人物であることを求められているかに思えます。
実際はどうでしょう。必ずしも当てはまる場面ばかりではないはずです。もちろん、基本の智識は必要ですが、あまりに流暢なトークをする場合、警戒心が働くことがあります。
最近、よく言われるのはコミュニケーション能力の重要性です。けれども、日本人は全般に多くの人が根本的にシャイな性格です。だからこそ、多くの場面で身構えてストレスを抱えてしまいます。
でも、絵にかいたようなコミュニケーション能力が、どれほど望まれているのでしょう。確かに意思表示をしなければ困る場面はあるでしょう。
けれども、伝える気持ちと必要な知識さえあれば、実際はそう困らない場面は結構多いのではないでしょうか。反対に、あまりに流暢な応対をする店員さんの場合、かえって警戒心を抱くこともあります。
出来る、出来ないは、あくまでイメージであり、結果とは無関係である可能性もあります。先ほどの家電店でいえば、不器用な店員さんの方が「テキパキ出来る」店員さんより売り上げが多い可能性もあります。
さいごに
ところが多くの場合、人と接することが好きな人は接客の仕事を選び、そうでない人は接客と関連のない仕事を選びます。けれども現実は仕事で結果を出すことや、相手が抱く印象は自分の感覚とは別です。
つまりは、「性格」や「得手、不得手」にとらわれずに、物事を選択することが、可能性を見出すことになります。それは自分が自分の行動を決めることだけにとどまりません。