母親の本棚にあった本。子供の頃、その背表紙が、いつも視界に入っていました。でも当時は「到底、自分が読みこなせない」ことを悟っていました。けれども、読みこなせない自分が許せなかったのです。
読書はスポーツと同じ
「密かな負けず嫌いの心情」がむくむくと出ては消えます。今にして思うのは読書とはスポーツと同じ面があります。慣れ。つまりトレーニングも必要です。
幼稚園の頃、自分の中で「園児時代最難関」と思われたキンダーブックの絵本がありました。それは『カンナカムイのたたかい』です。
今でもタイトルを忘れることはありません。あのときも私は自分と戦っていました。「絶対にスラスラつっかえずに読んでやる。」そう心に誓いました。
そして1ページからその本を声に出して読み始めました。「あ、つっかえた。」1ページからやり直し。「今度こそ。」最後まで読み通せるかと思った瞬間、「またつっかえた。」また1ページからやり直し。
いったい、5歳児の私は何と戦っていたのでしょう。おそらくそれは、現代の子供がゲームを全クリアする感覚と同じなのです。
難しい(と、当時思った)本を一度もつっかえず読める自分。それをどうしても確認したかったのです。そして何度目の挑戦だったでしょう。
遂に一度もつっかえずに読み通せたときの満足感。それは本の中の主人公が大物の魚(?だったと思います。)と格闘する心情とリンクしていたのです。
あの本を読み通した自信はそのあと「必ず読み通す」自信となりました。だから5歳児に得た自信は推定中学生位の私なら、「あと数年で必ずよみこなせるはず。」と、確信したのです。
捨てられずに「いつもそこに」あったから読む機会が訪れた
そして実際にその日はおとずれました。私が物心ついてから記憶にある母は、頻繁に本を買うことはありません。テレビで話題になった本や、たまたま新聞広告で見て買ってくるくらいのものです。
そして「一度買った本を捨てる」という概念が全くありません。一方で、だからこそ私は、例の本の背表紙を何年にもわたり認識することができたのです。
実際にその本を開き、読み終えたのはかなりあとになってからのことです。確か私が30歳くらいの頃です。おそらく育児にいくらかの節目が出たからです。少し気持ちに余裕が出たのでしょう。
そのとき、宮尾登美子の本を初めて開きました。今は滅多に本を買わなくなった母ですが、あるとき、偶然、宮尾登美子氏の後援会があったそうです。そこに友人から「一緒に行こう」と誘われ、会場で買い求めた本だというのでした。
その母の友人とは、私が小学生の頃、成長した息子さんの本を大量に頂いた、その方です。ああ、そうだったんだ。小学生の息子さんの本の選択は、おそらく母親である、その母の友人の影響がかなりあったに違いありません。
そしてずっと大人になるまで気にかかっていた宮尾登美子氏の本もまた、実は同じ女性が選んだ本だったのです。
私は母の本棚にあった2冊の宮尾登美子氏の本を読んだ後、さらに他の作品にも手を伸ばして読みすすめました。
手放さない事で「いつか読む」機会が、子供の頃に母の本棚の背表紙を見続けたようにあとから足がかりになることもあります。本とは、物ではあるのですが、時空を自在に行きかう側面があります。
私の本棚は常に変わります。我が子の場合は「親の本棚の記憶」が残らないに違いありません。それはそれで全く構いません。昔は、本のサイクルももっとゆっくりだったのではないでしょうか。けれども、長い月日を通して意識し続けることが出来る本。そんな本は数少ないのかもしれません。