物を減らしたい。そう考えた時に必要なことはたったひとつの考えです。それは目的です。目的を決めれば、おのずと物は減らせます。目的に合うものを残す。取り入れる。目的に合わない物は手放す。それが基本です。
目的に達しない事より、1歩でも前進したことを重視する
けれども、ここでジレンマが起きることがあります。目的を自覚しても、現実が変化に即対応できない時です。例えば「これからは納得いく服だけを着る。半端な服は手放そう。」と決心したとします。頭ではそう決心しても、全ての服を入れ替えるには、お金と時間が対応できなません。こういう場合、妥協することになります。すると「半端な服は着ないと決めたのに。」と自虐韓に陥ることもあるでしょう。でも、そんな風に思う事はありません。なぜなら一歩でも前進しているからです。「まだ完全に入れ替えができない」ことよりも「わずかでも目的に向かって進んだ。」ことが重要なのです。
完璧主義にならない
物を減らそうとしたとき、しばしば完璧を目指しがちです。スッキリ何もない部屋の画像に刺激され「このようにならなくてはいけない。」と「画」としての理想を持ってしまうのです。確かに「画」としてのスッキリ感は行動を起こすモチベ―ションです。けれども視覚は相対的なイメージが大きいという欠点があります。例えば、今ここに100の物があるとします。それを見て「物が少ない暮らし」を理想としたとします。新しい住まい、広い部屋、大きい家、収納スペースにゆとりがある住まいに100の物だけが置かれた部屋は美しく洗練されたショップのような印象を受けることでしょう。一方で、同じく100の物が置いてあっても、その住まいが、古い住まい、狭い家、小さい家、収納スペースにゆとりのない住まいであれば物はたくさんあり、全く洗練されているようには見えません。新しく洗練された住まいはモデルルームが良い例ですが、それだけでセンス良く見えるものです。そもそも、住まいに対する物の量は視覚的な印象が大きいのです。だからこそ、「画」としてのスッキリ感、物の少なさは、パッと見た目の印象では測れません。絶対的な量ではなく相対的な事に過ぎないことはしばしばあります。もっとも、これを逆手に取る方法はあります。見た目の物の少なさを演出するだけなら簡単です。物はできるだけ一か所に集中させ、他のスペースはできるだけ空けておけばいいのです。でも、あなたが求める「物減らし」は視覚的なことが目的ですか。「減らす」目的が「画」としてのイメージならば本来の意味からずれていくのは当然なのです。
完璧を目指さない事は俯瞰することでもある
物を減らすことが、今後の生き方を補佐するための目的であれば完璧である必要はありません。視覚的なことが目的であれば、それは行動に沿っているのではなく目的はインテリアです。行動や今後の生き方を補佐することが目的で物を減らすのであれば、完璧に減らそうと考えなくても良いのです。段階的に減らすといったことでも十分対応できます。物を減らすことに完璧を目指すとは、つまりはインテリア的な完璧さを追求することに向かいがちです。完璧にこだわらないことは全体を俯瞰することにつながります。
俯瞰することで客観性を持ち冷静になれる
物を減らすときに完璧を目指そうとしても、そうはならないのが常です。それは当然です。人は物を減らすことを最終目標にしているわけではないからです。減らすのは手段です。経過です。今、「減らすことの途中経過にある」とき、今どのくらい実現できているかと現実を把握することは大事です。冷静に状況を判断し客観性を持つことにつながるからです。
完璧を達成しないことが良い結果を生み出す
俯瞰すれば場合によっては「まだ理想通りに物が減らせていない」と気付くことでしょう。けれども完ぺきではない現状を把握することこそが重要なのです。完璧を目指せば、それこそ目的と手段が入れ替わってしまいます。ひとりで短期間に理想の住まい通りに物を減らそうとすれば当然、相当な労力がかかるからです。あまりに完璧を短期のうちに目指せば没頭せざるを得ません。するとしばしば目的を忘れ手段が目的と化してしまいます。それでは本末転倒です。
必要なのは全体を見通すこと
物の量というのは見た目で判断するのが難しいものです。そもそも人によって必要な物は違いがあります。その他、家族との関係、家族以外の地域や仕事などの関係、趣味との関係などそれぞれ関わる量には違いがあります。だからこそ目的が必要なのです。視覚的に「少ない」ことを目指せば自分の本来もとめるものとズレが生じて当然です。そうしたズレを産まないために必用なのは、自分の現状を全体的に見渡すことです。つまりは客観視です。今、自分が減らそうとしているのは、本当に自分の目的のためか、もしくはインテリア的な要素を求めているのか、それを見極めることが重要です。