「自分に自由な時間が増えたとして、やりたいこと。」
こうした事を問われた時、出る答えは案外みんな似ています。「そうそう。」と誰からも共感されやすいこともあります。例えば、旅行、買い物、スポーツ、映画鑑賞、家でゴロゴロ、勉強・・などです。
一方で、「なぜ、わざわざそんなことを?」と不思議がられる種類の行動があります。別に人に迷惑がかかるわけではありませんが、わざわざ行動する理由がわからない、ということのようです。そして理解出来ない事であった場合、ついには「それは強迫観念なのではないか。」と指摘されることがあります。
強迫観念とは、ざっくり言えば
幾ら打ち消しても、心につきまとって離れない、不快・不安な気持
を差すようです。例えば何度も鍵をかけたか確認せずにいられないとか、何度も手を洗うとか、そういうことでしょうか。この場合に肝心なポイントは本人が「不快、不安な気持ち」を抱えているということです。
つまり、他人から見て理解できない意味がなさそうな趣味も本人が全く不快、もしくは不安な気持ちを抱えていないのであれば、それは強迫観念とは言わないのです。もちろん、医学的なもっと深い見解はわかりません。けれども、何よりその趣味を行う事を本人が楽しんでいるならば、他人に理解出来なくてもそれは強迫観念では断じてないのです。
各個人が何を楽しいと感じ、何に興味を持たないかは多様です。例えば、多くの人はスポーツ観戦が好きです。多くの人が興味を持つので「私もスポーツ観戦が好きです。」とは言いやすい。けれども多数の「好き」を前に「興味がない。」などとは口が裂けても言えません。スポーツ観戦好きな人にわざわざ水を注す必要はありませんから、何も言わないわけです。
ところが、例えばある人の趣味が登山だったとしましょう。登山が趣味の人は割と多くはあるけれど、スポーツ観戦と比較すれば、そう多くはありません。「山に登ったことがない。」人は多いし「登山の何がおもしろいかわからない。」という人も割と多くいます。こういう場合は興味がない事を「登山は興味がない。」と言いやすいのです。同時に「辛い思いをして山に登るなんて、それは強迫観念にかられているんじゃないの?」とは割と言われやすいことです。一方で「スポーツ観戦好きだなんて強迫観念じゃないの?」とは言われにくい。違いは、結局のところ、それを趣味としている人が多数か、少数かにあります。
その「意味があるかどうかわからない趣味や楽しみ」が、どういう形になるのかは誰にもわかりません。楽しんでいる本人でさえわかりません。楽しんでいることに意味や目的は要りません。そもそも、人は遊ぶために生きているともいえるからです。