誰もが普通教に入信しているかのようです。
「普通」○○だよね。
こんな問いかけに対して、答えを詰まらせたことがありませんか。もちろん、誰にも迷惑をかけていない些細なことです。
それなのに私達は結構な頻度で「普通」の概念を受け入れてしまいます。ところで「普通」って何でしょう。
結局のところ、それはただの他人目線なんです。しかも実態などどこにもありません。
普通の食事も、普通の服装も、普通の住まいも。「普通」とは結局何となくのイメージに過ぎません。さらにそのイメージはどこからやって来るのでしょう。
突き詰めれば、根源はしょせん、テレビ、雑誌、ポスターなどの広告なのです。これらに共通すること、それは主に映像や画像が中心であることです。
確かに映像や紙媒体の広告はインパクトがあります。見てすぐにわかる媒体なので楽。だからこそ与える影響が大きい。映像や画像を通じて「普通」という暗黙の圧力を受けるとともに「普通でなければいけない。」と自らを押し込んでしまうのです。
一方で文字を読むなら「読む」「想像力を働かせる」手間が必要です。けれども映像を観るには手間がほとんどいりません。だから手っ取り早く多数に影響を受けます。
けれども、それらはしょせん虚構です。ときにリアルな生活風景が映し出されることもありますが、テレビ用、雑誌用、広告用に気合を入れて作られた食卓なり部屋なりです。
さらにそれらは、選択肢の1つに過ぎません。ところが私達は偶然観た物を標準化しようとします。
一刻も早く「普通」に身を置き安心したいからです。とりあえず「普通」であれば安心できます。そして選ぶ理由を考える必要もありません。「普通」とは違う概念を知れば「それは普通と違うでしょ。」と暗黙の圧力をかけることもできます。
「普通」の実態が不明なのにも関わらず私たちは普通を崇拝します。
主婦であれば
普通の食事
普通の洗濯
普通の掃除
・・
などです。
冷静に考えれば衣食住は多少の個人差があって当たり前です。
けれども日常の暮らしは、自分がやりたいようにやればいいんです。普通の常識など何が基準になっているかもわからない。それなのに信じてしまう。いわば普通教です。
実態は単にテレビだったり、雑誌だったりに過ぎないことがあります。普通の概念にとらわれることをストップしてみる。
案外、それだけで大変だと思っていた家事も解決の糸口が見えるのです。