いい加減にスマートフォン決済アプリを使わないと、やっぱり流行に乗り遅れてしまうのでしょうか。
昨日(3月14日)の日経新聞コラム、「春秋」に、著者さんが「スマホ決済アプリを使うときに慌てた話」が書いてありました。
日経新聞の「春秋」と言えば、ビジネスマンや学生など様々な分野の人が、「文章の鍛錬」に使っている格式のあるコラムです。
にもかかわらず、その「春秋」を書いている方も、普通の人と同じように、スマホ決済アプリを使うとき、スムーズにいかずに焦ったのです。こう言っては失礼ですが、読んでほっとした思いだったのは、私だけでは無いはずです。 (コラムの趣旨は「スマホ決済で焦る話」ではありません。)
私も、スマホ決済アプリになかなか踏み切る気になれない理由は、「春秋」に書かれていたような状態になるのを、少しだけめんどうに思うからです。
きっと私も「春秋」の著者さんのように、レジでもたつき、あせるかもしれません。そんな時に相手(この場合はレジ店員)の「いら立ち」を感じて、やり切れない気持ちに愕然としたくないからかもしれません。事が「誰にでも出来る簡単なこと」だからこそなお、の感情です。
けれども、まあ、実際には仮にそういうことがあったとしても、そこで愕然としてうなだれてなどいやしないのですが。
「いら立ち」を感じさせる立場とはなんでしょうか。これは結局のところ「明日は我が身」なのです。つまりは「お互いさま」です。
ところが、多くの場合、誰もが根拠のない信念を抱いています。自分がいつ何時でも「いら立ちを感じさせる側にはなるはずがない。」と。
けれども、時間や状況による変化は誰にでも起こり得ます。実際に私もある日突然、想定外の時間差で「いらだちを感じさせるかもしれないボーダーライン」の立ち位置にいます。
常に「いら立ち」を感じずにいられない人がいるとすれば、いずれ悔やむ気持ちになるでしょう。
以前、何でもなかった頃には気付かなかったことも、そうなったときに初めて、はじめて「いら立ち」を感じさせてしまった自らの「感情の放出」に呆れ返るはずです。
けれども当初から他人に対していら立ちを持っていなければ、突然状況が変わっても自らを悔いたり、他人をうらやんだり、暗い気持ちになることもありません。
そもそも、このような場合においては、人は悪気があって相手をイライラさせる行動をとっているわけではありません。
そこで問題があるとすれば、それは現象そのものであって、その人の行動ではありません。
ところが人はしばしば現象ではなく「人」そのものを責めてしまうのです。それこそが愚かなことです。
ある日突然、または時間の経過で「いらだちを感じさせるかもしれない立ち位置」に来ても、自身に愕然としない秘訣はあります。
それは「何でもない」今のうちから、状況によるマイナスの原因を人にあると思わないことです。原因は全て現象にあると気付くことです。