「私は『他人の目』なんて気にしてませんよ。」
という方でも、この本を読むと、実は意識しない間に「他人の目」という評価にとらわれている機会が多数ある事に気が付きます。
「おしゃれ」「仕事ができる」も単なる他人の評価
例えば、このように他人から言われたら、どう感じますか?
- 「おしゃれ」「仕事ができる」も単なる他人の評価
- 共通するのは「批判的な人、心配性の人、過干渉の人が身近にいたこと」
- 「なりたい自分」も他人に軸を置いているだけ
- 「ほめて育てる」の是非
- 「傷つく人」と「傷つかない人」の違い
- 「心ない言葉」を発する人は、病んでいる可能性が高い
- リアルな人間関係の場数を踏む
- さいごに
かわいい
きれい
ブス
スタイルがいい
デブ
おしゃれ
センスがいい
ださい
頭がよさそう
仕事ができそう
・・。
著者によれば、
これらは全て「人からどう思われるか」の表現
だそうです。
同時に、他人にとらわれることは「強烈に自分ばかり見ていることでもある」そう。
こうしてみると、わたしたちは意識している以上に他人の目を重要視していることに気がつきます。
共通するのは「批判的な人、心配性の人、過干渉の人が身近にいたこと」
ではなぜ、そもそも他人の目を気にするようになるのか。基本的に人は他人の目を意識しないで生きることはできません。
第一に赤ん坊は母親を中心に親(など)誰かから保護されなくては生きられません。もっとも、この本には親の関連にはあまり触れられていません。
その理由として、こうあります。
「他人の目」の気になり方が強い人の場合、だいたい共通して言えることとしては、批判的な人、心配性の人、過干渉の人が身近にいた、ということ
ハッキリ明言はしていませんが、高い確率で「他人の目」を意識するきっかけになるのは親などである確率も高いかもしれませんね。
誰にも親がいるし、自分が現在、親の立場になっている場合もあるわけです。こうしたとき、まずは内面でひそかに親から自立することが必要ですね。
同時に、自分が親である場合は、我が子に対して批判的、心配性、過干渉にならないように注意が必要ですね。
自分が親である場合はともかく、身近に批判的、心配性、過干渉な人がいる場合は、ある年齢になったら物理的に距離をおくことが現実的な対策でしょう。
また「他人の目」を気にする弊害としてこんな記述があります。
「他人の目」を気にすればするほど、自信はなくなっていきます。
なぜなら他人の目を気にすることは
まな板の上の鯉
と同じ状態だから自信がつかないとのことです。
となれば
他者による相対評価ほど、不安定なものはない
ということです。
つまり、どんなに品質の良い服を買おうが、センスの良いバッグを持っていようが、資格をとろうが、その意味を他人にゆだねている限りは、永遠にその人は不安であり続けるということですね。
「なりたい自分」も他人に軸を置いているだけ
また、だいぶ前からの傾向としてよく見られるフレーズがあります。たとえば
「なりたい自分」
という表現です。なりたい理想の姿があり、それに向かって切磋琢磨し努力する意が込められたフレーズです。
けれども、「なりたい自分」の結果に他人目線を軸に据えている限り、やはり永遠に満足が得られることはありません。
このような姿は一見、「努力を怠らない輝ける人」と多くの人の目に映ります。ですがこのような様子を見ると、確かに素晴らしいのですが、なぜかご本人が常に何かに怯えているような違和感を抱いたことがないでしょうか。
おそらくは、その違和感の正体こそが、「他人の目」を意識した「努力めいた行動」なのです。
本書では、
「他人からよい評価を受ければ自信がつく」という間違った仮設の上に成り立っているスパイラル
であり、自信を他人の評価にゆだねることの危うさを説いています。
さらに大事なのは
私たちの価値は外側から評価できる性質のものではありません。
ということだそう。
また、意外なのは
ポジティブな評価にも暴力性が潜んでいる
という点です。
「ほめて育てる」の是非
「ほめられる。」というポジティブなことも、実は他人の評価に過ぎないわけです。だから「ほめられる」ことに価値を置いてしまうと、常に不安に駆られることに終わりはないというわけですね。
だいぶ前から「子供はほめて育てなさい。」みたいなことを言われています。確かに叱られたり、悪い面を強調されるよりましという見方があります。
けれども、そもそもが「良い」「悪い」の評価はある場面に限っては絶対的なものとはいえません。
例えば、子供が学校の宿題を期限までに提出しないことは「悪い」こととみなされます。一方で期限内に提出すれば「良い」と評価されます。
これらは一見、当たり前のことに見えます。ですが期限までに提出していても内容がいい加減なものかもしれませんし、期限に提出が間に合わなかったのは、何か壮大な企画をこなしていたために遅れたのかもしれません。
まあ、このような事例は社会通念上、ごく普通の事です。とはいえ、広く状況を俯瞰すればこの評価が絶対的なものというわけではありません。
もっと長い目で見れば、期限に一日遅れても濃い中身の宿題を仕上げた生徒の方が、本人の満足度も含めてはるかに意味があることでしょう。
要は、他人の目とはごく一時的な「都合」によって一時的に処理されるだけのものです。
「傷つく人」と「傷つかない人」の違い
また、同じような現象にあっても「傷つく人」と「傷つかない人」の違いについて触れられています。
一般の言われる「気にしすぎ」と言われて「気にしないように努力」することはまず、うまくいかないと言います。
理由は「気にしすぎ」ということもまた「評価」であり「プチ・トラウマ」をもたらすからなのだそうです。
それに何がまずいかというと、「他人は評価して傷つける存在」と強く認識してしまうからなのだそうです。
この「気にしすぎ」というフレーズは私も苦手です。例えばこんな経験があります。
以前かかっていた歯科医院で、どうしても再び歯が痛いので再来院しました。ところが医師は「痛いはずはない。気にしすぎ。」としか言いません。
後になってわかったことですが、この時は確かに歯が痛かったのです。そして原因は無意識に行っていた「噛みしめ」だったわけです。
まあ、医師は「気にしすぎですよ。大丈夫だから安心してね。」という意図で言ってくれたのだと思います。
それでも数日後、「やはり治療中に医院を変えたりしないで、同じ歯科医院に行くのがいいだろう」と考え、勇気を振り絞って予約の電話をかけたのです。
すると意外な顛末が起きました。その歯科医院は閉院していたのです。私が最後に行った時には、おそらく閉院したことは決まっていたでしょう。
もしかすると「気にしすぎ」と言ったのは、そんな最中の事情もあったのかもしれません。
つまり相手の事情なんて、どんなに考えてもわかるわけはないのです。その後私は、新たな歯科医院に行きました。
「心ない言葉」を発する人は、病んでいる可能性が高い
また、「他人の目」を気にしてしまう人が「他人の心ない言葉」を受けた時の対処法が書かれています。
それによると、「心ない言葉」を同じように自分も他人に発するか考えてみるということ。たいていは「言わない」わけです。
となれば、その「心ない言葉を発する人」はリアルな対面に限らず、ネット上の発言も含めて病んでいる可能性が高いということです。同時に本人がそうした心のうちに苦しんでいるということだそう。
だからそもそも真に受けても意味がないわけです。
また他人の「ありのまま」を認めることが「思いやり」につながるそうです。
リアルな人間関係の場数を踏む
これらはリアルな人間関係の場数を踏む事で「実はみんなこんなもん」ということを知るわけです。
「自信さえつけば」と考えても自信が付かない危うさも指摘しています。というのは自信とは単なるイメージであり
「自分を肯定する気持ち」を感じられること
だそう。
さいごに
この本には、長い間に渡り蓄積されてしまった誤った「自信」のすげ替え方についても記されています。
他人の目を気にせず、自分が自分として生きること。一見、当たり前の事ですが様々な蓄積された弊害が元で見えない足かせを付けている方は多いことでしょう。
なぜそう言えるかと言えば、ブログを書いているとわかりますが、服の記事を書くとどんなに些細な記事でもアクセスがぐんと伸びるからです。
裏を返せば、多くの人が「他人からどう見られるか」に関し、迷子になって自信をなくしているということです。
無意識であるでしょうが、「だから服変えて見た目を整えれば、自信がつき堂々とラクに生きられる。」と考えるのかもしれません。
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