はじめに
先日、有名ブロガー(現在はユーチューバ―でもあります。)のイケダハヤトさんのユーチューブ動画を視ていたら、数年前に出版された仏教のスマナサーラ氏との対談本に触れていました。
「そういえば、以前そんな本が出ていたような気がする。」
アルボムッレ スマナサーラ氏の本は見かけたことはありますが読んだことがありません。せっかくなので、この機会に読んでみることにしました。

仏教は宗教ではない ― お釈迦様が教えた完成された科学 (Evolving)
- 作者: アルボムッレスマナサーラ,イケダハヤト
- 出版社/メーカー: Evolving
- 発売日: 2014/10/30
- メディア: 新書
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この本は、以下のタイトルで、アマゾンのKindle Unlimited(キンドルアンリミテッド)の対象です。私は、こちらを利用しました。
仏教は宗教ではない ?お釈迦様が教えた完成された科学? 仏教は宗教ではない 前編
やさしく自由に生きる智慧 ?理性を育てて幸福を目指す? 仏教は宗教ではない 後編
Kindle Unlimitedとは?
結論を言えば、かなり興味深いものでした。書籍は5年前に出版された物ですが、全く内容は古くありません。
むしろ、やっと「時代が追い付いてきたのではないか?」の印象の方が大きい。少なくとも日本国内においては。
余談ですが、例えば途中に「嫌われたくない」ことについての記述などは、ベストセラーの 嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え の気配さえ感じます。
一説によれば、アドラー心理学は仏教との共通点を指摘する声もあります。
仏教と有名プロブロガー
イケダハヤトさんは、「〇〇と言えばイケダハヤト」というようなポジションを確立することを意識してビジネスを進めているそうです。
当時、
「仏教と言えばイケダハヤト」
というポジションをも意識していたとのことです。
2019年の10月である現在は、イケダハヤト氏といえば、
地方移住
仮想通貨
元炎上ブロガー
・・のイメージが私の中ではあります。
一方で、仏教はイメージが沸かない気がします。
(そんな時期もあったんだ。)
・・改めて内容が気になったので、読んでみることにしました。
アルボムッレ・スマナサーラ 氏とは?
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年4月、スリランカ生まれ。13歳で出家得度。スリランカの国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭を とった後、1980年に国費留学生として来日。駒澤大学大学院博士課程を経て、現在は日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事。
出典:アマゾン
Google社員、ジョブズ、マインドフルネス、禅、仏教
最近は、グーグルの社員がマインドフルネスを取り入れたり、スティーヴ・ジョブズが禅を意識しており、日本に訪れていたという話題に事欠きません。世界の最先端を担う彼ら(彼女ら)も、一見「仏教」に近い(もしくは違うかもしれないが)強い関心を寄せているとも取れます。
仏教は宗教ではない
ここで重要なのは仏教は宗教ではない、という事です。それはタイトルにもあるわけです。これは私の解釈ですが、おそらく本来の仏教とは、起源は古いのだけれど、実は最も新しい概念だという解釈です。もっとも、実は新しいも古いもなく、仏教としての概念は、元もとそこにあったものだろうということです。
この書籍では、「なぜ仏教が宗教ではないのか。」から始まり、人の根本的なことが次々と明かされていきます。初めてこのような概念を知った人は、大きな戸惑いを覚えるに違いがありません。
が一見、驚いてしまうあまり見聞きしない概念も、読んでいる私たちは安心してスマナサーラ氏の話を聞くことができます。なぜなら、イケダハヤト氏が私たちに代わり、一般的な視点でスマナサーラ氏に質問を投げかけてくれるからです。
当時のイケハヤ氏のブログには、このような説明がなされています。
ぼくはブッダの教えは、四書五経に近いものだと理解しています。「論語を勉強しているんです」というと「へー!すごいね!」と言われるのに、「仏教を勉強しています」というと「へー…」と距離を置かれるのは、ホント変な話。
5年の月日はどう変化したか
この本は約5年前に出版されています。ですので、対談したイケダハヤト氏もまだ20代後半。長女である娘さんもまだ生まれて間もなかった時期のようです。
その対談の前後の発言で印象的な事があります。それは当時、イケハヤ氏が不安な気持ちが多々あったことを、表に出していることです。
一方で現在は、どちらかといえば、淡々と冷静に事に当たっているように見えます。あまり、その内面が語られることはありません。
現在のイケハヤ氏は、パッと見た目で本心なのか、戦略上のことなのかが読みにくい印象があります。
もっともその「読みにくさ」は動画であれば、視聴者のこちらが試されていることでもあるのです。背景を知っていれば、イケハヤ氏の発言の真意を読む事が可能なはずだからです。
印象に残った箇所
仏教と祈りは無関係
さて、以下からは本文で特に印象に残った箇所を挙げてみます。
イケダ 多くの日本人は、仏像を見てお願いごとをしたり、祈ったりしているわけですけど、そういうことは本来の仏教の習慣ではない、と。
スマナサーラ 仏教では、「祈っても何にもならないんだ」とはっきり言っているんですよ。
お寺ではだいたい、手を合わせて願かけしたりしています。もっとも、これらの人が手を合わせているのは「そうするものだ。」と信じているからです。
間違っていると言っても悪意があるわけではない。反対に、お寺に行った時、周りの空気を読まずにこちらが手を合わせない場合、こちらが変な人だと思われてしまうことでしょうだから私の場合は、心の中では何も思わずに、空気を読んで手を合わせていました。ですがこの後の箇所を読むと、「空気を読んで無理に手を合わせる」ことが本当にそれでいいのだろうか、とも思えてきました。要は波風を立てたくないわけです。つまり「嫌われたくない」わけです。
嫌われても気にせず自由に
スマナサーラ みんなに嫌われても全然気にもしない。ひとりでも多くの人が、心を自由にして欲しいんですよ。自由に考えて欲しい、自由に判断して欲しいのです。
私も例外なく、嫌われることを恐れていたわけですね。同時に、同じような人は多い。だから先ほど挙げた「嫌われる勇気」がベストセラーになる。
もっとも、それは致し方ない面はある。日本は災害が多い国だから、一人で生きることはできなかった。だから本能が「嫌われたくない」を優先してしまうわけです。
最初の洗脳は親
スマナサーラ それから宗教のもうひとつの大きな問題は、人を「洗脳」することですね。
スマナサーラ 我々が、いちばん最初に「マインドコントロール」されるのはお母さんですね。お母さんが私たちを心配して「きちんと挨拶しなさいよ」「挨拶できないとかっこ悪いよ」「ゆっくり食べなさい」とかあれこれ言います。
人は例外なく、親から洗脳されるわけですね。まあ、ある程度の年齢まで、親の影響が大きいのはやむを得ない。そうしないと生きて行かないのだから。
一方で、ある程度の年齢になったならば、親は子離れして「洗脳」から子供を開放しないといけない。自分の教えが間違っている可能性があるのだから。
もちろん、子も親の教えを疑ってみなくてはならないのです。例えばこの記事は、そんな思いもあって書いたものです。
子育ての最中、偏りのない教えで育てたつもりでも、絶対ということはない。だから子供がよくある「親への感謝」にがんじがらめになり、自分の頭で考えることを放棄するかもしれない。それを予め排除することが親としての役割だと思ったわけです。
もちろん、子供が親である私に感謝するな、と言いたいだけであり、世の中や他人に感謝するなという意味では全くありません。しばしば誤読されるのですが。
洗脳されると思考する回路が衰えて壊れる
イケダ それに対して「洗脳」とはどのようなものでしょうか?
スマナサーラ 「洗脳」は絶対に悪いことです。なぜかというと、「洗脳」は思考する能力を奪うんです。自分で考えて判断する能力をバイパスさせるんです。脳内で思考する神経回路がバイパスされてしまうと、思考以外の神経回路は活発になりますが、思考する神経回路は衰えて壊れるんです。
ということは、親の洗脳でさえ思考停止の恐れがあるわけですね。これは大変だ。
自分で思考する能力をなくしたら危険だということ。つまり常に疑問を持つことが洗脳を防ぐポイントということですね。
学問と知識が武器になる
イケダ 世の中には、洗脳するような危険な宗教があります。ぼくたちが騙されないためには何をしたらよいでしょうか?
スマナサーラ やっぱり学ぶことですね。学問や知識をバカにしてはいけません。なぜなら、我々人間と動物の違いは考える能力があること
人間は大脳をもって生まれたんですね。だからそれは、自分の身を守る大切な道具なんです。武器なんですね。
イケダハヤト氏の著書にはこの本があります。まさに「武器としての」ですね。
危険な宗教の見分け方
イケダ 危険な宗教の見分け方はありますか?
スマナサーラ 我々は「神様だ」とか話し始めたらそれでアウトでしょう。
最近、有名な新興宗教教祖の子息さんが、「親の教祖は自分が神ではないと知って言っている」という意味の発言をしている動画をたまたま見ました。「神だ。」と自ら言う人は嘘をついているか、ウソではないなら、何らかの不具合があるのか。
だから、妄想して「こういうのがあればいいなぁ」と思う。これは子供の遊びなので大丈夫なんです。嘘だと知っていますからね。問題は、それを大人になっても心の中で続けてしまう人たちがいることなんです。
「神様とか、不思議体験のたぐいは、成長過程で子供が妄想するもの。大人はいい加減「妄想」から離れなくてはいけない。」ということですね。
子供は妄想しながら成長しますから、それ自体を否定はしない。けれどもそれを、大人が続けてしまうことに問題があるわけですね。なるほど。
危険な教えに対する免疫の有無
子供の頃「ノストラダムスの大予言」に本気で恐れました。「口裂け女」には大人も本気で恐れていた感があります。今、若い年代の人は信じられないだろうけど。>夏休みは日テレで「あなたの知らない世界」に本気で震えて真面目な顔で解説するおじさんの話を真面目に聞き入っていました。でも、そういう経緯を経たからこそ、ある時「これは全部作り話だ。」と実感することができたんです。>つまり「子供の遊びであり妄想だ。」と。一方で、大人になっても真面目にスピリチュアルを語る人は、子供の頃に「免疫」が付けられなかった人なのかもしれないとも思います。私が今、スピリチュアルを真面目に受け入れないのはおそらく、散々「予防接種を受けてきたから。今ではすっかり免疫が付いているから」なのです。
本物とニセモノの区別法
では、ホンモノとニセモノを区別するものは何でしょうか。ヒントになることを幾つか挙げてみます。先ず、ニセモノは常に自分を売り込もうとします。仏教では、これは大きなヒントになります。ニセモノは、皆に気に入られようとし、教えを語るよりも相手の気持ちに逆らわないように気をつけます。大衆に人気があることを自慢し、権力者や知識人や資産家が信徒になると、その人々の世俗的な能力を自分の宣伝に利用します。
つまり、ある意味「いい人」に見えて、相手の話を優しく受け止めてくれるような、「ニセモノ」がいるということでしょうか。そういわれてみると、過去にテレビでよく目にしたようなところに「ああいう感じかな?」という状況が当てはまる気がします。
それに対しニセモノは、表面を気にして、うわべを磨きます。ぼろ服を着たり、断食したり、美味しいものをわざと不味くして食べたり、何かの行で身体を痛めたり、様々な祈祷用の装身具を身につけたりします。
ぼろ服、断食、まずい食べ物。何かの行。装身具。こうした目に見てわかりやすいものは、「うわべ」を取り繕いやすいのですね。一見して、これらは、うわべにこだわらないと見えがちですが、実はこうした「うわべ」の形もあるのですね。これは気が付きませんでした。
例えば「苦労しないとわからない」というのもニセモノの一種かと。苦労してわかることはあるかもしれないけれど、苦労はしないに越したことがない。それは苦労させたい人の都合のいい発言。運悪く苦労してしまった人が自分を奮い立たせるために肯定することはあるかもしれない。けれども、外側から「苦労を買ってでもしなさい。」というのは、ニセモノだと思っています。
砂を持ち帰るという「宗教」
スマナサーラ 多くの人が、日本人は宗教を煙たがっているとかあれこれ言いますけど、日本ほど宗教に凝り固まっている国はあるのかと思いますね。
スマナサーラ 高校野球では甲子園に行ったら土を持って帰るのです。
スマナサーラ 何でも宗教にしてしまうとすごく生きづらいし、足が重くなるんですよ。仕事でも何でも、ひとつのゲームだと思ったほうが楽でしょう。
多くの日本人が生きづらさを感じるのは「宗教」にがんじがらめになっているからなのでしょう。確かに「でなければならない。」が多すぎますね。
ゲーム感覚で楽しめば楽に得られる
スマナサーラ ゲームという感覚で生きてみれば、失敗なんかは極限に減らせます。ストレスもたまらないのです。 宗教が売りさばいている「学業成就」「商売繁盛」「家庭円満」「夫婦円満」「病気平癒」などの品物はすべて、明るく自由に生きる人間には楽に得られるもの
勉強も仕事も遊び。全てが遊びの感覚で生きれば人が欲しい物は全て楽に得られる。これは目からウロコです。特に「病気平癒」でさえ、その範疇だとは。でも確かにそうなのです。病気になる事で「特別である自分」を意識し、そこに居場所を求めてはいけない。自分が病気を経験したから、それはよくよく注意していることでもあるのです。
移住決心のスタート
イケハヤ 「なるようにしかならない」というのはわかっていても、どうしても不安が影のように付きまとってくるのです。 お金の不安から逃れるためにも、もっと生活費の安い地方に移住することを考えています。
高知移住の発端は、ここがスタートだったよう。
イケダ 自我とか、自分への執着をなくしていくと、自分ってそもそも何なんだろうという話になると思うんですよね
「自分」は、ない
仏教関連の他の書籍で 「自分と」いうものは、本当はない?」と知り初めは面食らいました。ですが今は普通に受け入れることができている。普段は忘れていますが。
スマナサーラ たとえば、手が痛くなったり、足が冷えたりする。その現象をまとめなくてはならないですね。それで「私の」としてしまうんです。それはただの概念だけなんです。「自分」というのはただの概念です。
「では自分の定義はなにか?」それは現象をまとめる概念。それだけ。
無条件で人間脳を得られるわけではない
私も数年前、この概念を知ったのは、確かに仏教関連の著書でした。この概念を知るか知らないかで、天と地ほどの違いがあります。
スマナサーラ 新しい脳とは大脳のことです。古い脳は動物たちにもある脳です。(中略)人間は感情中心に生きると、獣の脳(原始脳)が強くなって、獣度が上がります。理性中心に生きると、大脳が開発されて、原始脳の機能が低下します。人間度が上がります。人間の形をもって生まれたからといって、人格的な人間にはなれません。
人間に生まれても、無条件で人間になれるわけではないということですね。真のに人間らしく生きるには理性を中心に据えなくてはならない。感情を中心に生きるのは、獣と同じレベルにあるということですね。
さいごに
ここで紹介したものは、本の前半部分です。
こうしてスマナサーラ氏の発言を受け止めてみると、仏教は宗教というより医学でもあり心理学でもあり化学でもあり科学でもあり、それ以外でもある。
相当古い時代から取り入れられているけれど、実は最も新しいことなのでしょう。
まとめ
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