ミニマリストブームが浸透しています。
ミニマリストといえば「ひたすら減らす」イメージがありますよね。
でも、減らすことに集中しすぎると手段と目的が入れ替わってしまうんですよね。
「やみくもに減らせばいい」
— ちゃくま@簡単に暮らせ (@chakuma_kurase) 2020年1月21日
というわけではないんですよね
自分の中で、
・ミニマルに持つ
・数を気にしないで持つ
・持っていいけど限度量を決めておく・・をざっくり決めておく
するとガマンしないで好きなものはとことん極め、余計なものは増えないのでメリハリが活きます #ミニマリスト
- そもそも、モノを減らしたいと思ったのはなぜ?
- 何か、やりたい事や理想があって、それに集中したいからではなかった?
私も、物を減らしまくっていた時には自問する事にしてました。減らすことは手段なんです。
目的じゃない。
モノを減らして視覚的なインパクトが大きければ注目を集めます。
「持たない理由」
はネットを検索すればいくらでも「それらしい」答えが出てきます。
- でも、それって本音なの?
- 後付けの理由じゃないの?
ミニマリストに対して、当初いろんな意見が飛び交いました。
それは本音にフタをして、減らすという注目をあびること自体が目的みたいに映ったからなのでしょう。
さすがに今では、あれから5年くらいたち、もうミニマリストを何だかんだ言う人はそんなにいません。
減らす過程で、注意しないと無意識にミニマリストになる事が目的になってしまう。
こういう場合には共通しているのは、やたら懺悔すること。
例えば、
「ミニマリストなのに買ってしまった。」
とか、
「ミニマリストなのにこんなに持っている」
というような他者に対する説明です。
モノをどれだけ持つか。
それはあくまで個人の問題なんですよね。
もちろん、ミニマリストと名乗るのも自由。
何をもってミニマリストというのかも自由です。
自分がミニマリストと思うなら、もうそれでいいのです。
ところが結局、こうした懺悔や説明をしてしまう場合は、他人目線を意識したミニマリストをやってしまっている。
そもそも、モノをそれだけ持つかなんて、各自の事情をいちいち説明などしきれません。
全ての人に好かれるのはムリであるように、全ての人に自分のライフスタイルを説明し、納得してもらうなんてムリなんです。
だから少なく持つモノと、たくさん持つモノを、自分で基準を決めればいい。
単純な問題として、普通の人には生活するスペースには限度があります。仮に田舎の広大な敷地や家があったとしても、物理的なモノは、ただ置いておけばいつかは誰かが何とか整理しないといけない。
だから自分でモノには適正な量を持つ必要があります。
例えば、趣味で集めているコレクションの豆皿があるとします。暮らしていくなら豆皿はせいぜい5枚もあれば十分ですが、趣味で集めているなら例えば「この棚に収まる分までは集めてOK」みたいに数をそんなに気にしないで持てばいいんですよね。
一方で、ボールペンを10本も20本も持っても使うのはせいぜい4,5本です。スペースはとらないけれど、これは数を制限したほうが暮らしやすい。
洋服もそう。服が好きでそれが生きがいの人なら、とことん持っていい。一方でインテリアには興味がなくて、ホームセンターから買った最小限の家具があるだけ、なんてこともあるかもしれない。
要はモノの持ち方って、他人の視点を気にするのはやめて、自分が主体性を持って選ぶことなんだと。
一方で、他人から賞賛されるためにモノを減らしたり、買ったりという暮らしは楽しくない。何より自分が暮らしていて息苦しくなってきます。
少なく持つモノとは興味がないモノ、でもどうしても必要な生活必需品などでしょうか。
モノの数を気にしないで持ってもいいのは、自分が好きなモノ、興味のあるモノです。つまりは好きなモノです。
先日読んだ投資家の方が書いた本によれば、これからの時代、AIに代替されない感覚こそが大事なのだそうです。
じゃあ何がAIに代替されない感覚なのかといえば、1つが「好き嫌い」です。自分の「好き」はもっと大事にしていい。
各自の「好き」を極めた住まいとは、それぞれ違う物が出来上がるはず。AIが得意なのは「みんな同じ」ことですがAIにとって難しいのは論理で説明できない感覚です。
だからこれからは他人に認められることを意識してモノを持つんじゃなくて、自分の好きをもっと認めてあげることが大事なんだと思います。
それでは、また!