「ああ、だから良かったのかも。」
と思う事があったので紹介します。
それは私が食べるものについて、「おいしさ」を求める欲求が少ないことです。
簡単にいえば、「365日、美味しいものを食べなくても、たいして苦にならない」ということです。
もちろん、マズイものを食べたいとは思わないし、美味しいものを食べれば「おいしい」と思います。
けれども普段は「ほどほど」であれば満足です。
だから今のように、連日思う様な食生活ができなくても、あまりこの件に関してストレスがたまりません。
以前何かで読んだのですが、平安時代くらいの貴族の人たちは、食べ物の好みや味などを公言することは「はしたない」という感覚だったそうです。
理由はこうです。食べ物の味について評価することは、下品だという感覚だったらしいのです。それは例えばそれは、男性が女性の容姿の好みをあれこれ公言するようなことと同列とされる感覚だったらしい。
いつから、食べ物の好みを声高に話すことが恥ずかしいことではなくなったのかわかりません。確かに、食べ物を健康の手段として話すのであればまだしも、味をメインの話題にするのは妙だという気がします。
少し前から気になっていた表現があります。それはテレビのグルメ番組などです。何かといえばすぐに「お味は?」と掛け声が入ることです。
食べ物の評価は味だけではないはずですが、皆判を押したように「お味は?」を繰り返します。
考えてみれば「おいしい」価値観はどこから来るものかがあいまいです。テレビなどで繰り返される「おいしい像」で、すり込まれた美味しさである可能性は大きいと思います。
例えば「牛肉は霜降り肉がおいしい」という価値観も、何度もそういう映像を繰り返し見ているからです。
なにかといえば「やわらかい」という表現も同じくテレビの繰り返しでそう思い込まされているだけです。
例えばコーヒーも紅茶も以前はそこそこの値段のものを買っていました。けれども、歯が汚れやすいのでインスタントのコーヒーとティーバッグのPB品に替えてみました。
すると歯が汚れにくいばかりか、美味しすぎないから飲み過ぎないのです。また喫茶店に行くとどんなものを飲んでも美味しく感じます。
ところが自宅でそこそこの物を飲んでいたときは、わかった風の評価をしてしまい、楽しめません。
普段は60点レベルくらいの食生活をして、ピンポイント的に80点くらいの物を食べればいいと思うんです。
ところが毎日100点を目指してしまうと第一、手に入らない時や思う様な品質でなかった時のストレスがかかります。
それどころか、食べられることに対する感謝の気持ちも忘れてしまいそうです。
庭に小さなキッチンガーデンを作った経験があります。その経験でわかるのですが、小さなスペースでさえ野菜一つ育てるのも、本当に大変です。
普通に育つだけでも大変なのに、美味しさを求めるとそれはもう難易度が高いわけです。
野菜1つにしても、完璧な製品に仕上げる大変さが想像できるので、そこに常に100%のおいしさまでも求めることはしないことにしています。
それでも私たちの食卓は、相当に恵まれていると思うのです。だからすでに十分美味しいものを食べているはずですが、満ち足りていることに気付かないと今度は強迫観念のように食を求めかねません。
食はもっとマイペースでいいと思うのです。