はじめに
今回は、生物学者でもある著者の柔軟で冷静な視点を持つ本を紹介します。たとえば「人生100年時代」は何度も耳にする言葉ですが、なぜこの言葉が連呼されるかを考えたことがあるでしょうか。
もくじ
物事の意味を求める無意味さに気づく
生と死の意味について
著者がしばしば聞かれるのは、昆虫採集をしているときに「虫を集めてどうするんですか?」という質問だそうです。
著者は虫を採りたいから採っているわけですが、人々は理由を求める不可思議と人間の「病」に気が付いています。つまりなんにでも意味を求めてしまう病です。
考えてみれば類似の例は多数あります。
- 何のために生きているのだろう
- 何のために結婚したのだろう
- 何のために子育てするのだろう
- 何のために仕事をするのだろう
- 何のためにブログを書くのだろう
・・というように、です。
けれども著者は、物事に意味を求める無意味さを主張しています。
人間は何であれ、行動に身をつけなければ納得しない動物のようだ。
物事の意味を求めすぎることが、まわりまわって次のような思考に行き着いてしまうと指摘しています。
個人は何かの役に立つために生きているわけでもなければ、意味を求めて行動しているわけでもない。
意味を求めるから、自分の生き様や他人についても危険な思考を抱いてしまうということです。
しかし、意味と言う病に頭を侵された人は、無意味な存在を許すことができず抹殺したくて仕方がなくなるようだ。
さらに意味を求めることは、時代を超えて支配者にいいように利用されてきたことを指摘しています。
「食うために働け」と言う言説は、時代時代の権力者に都合のいいように言い換えられ「主君のために」「天皇のために」「みんなのために」「会社のために」「家族のために」「自分のために」と様々なバージョンを生み出し、ついには「グローバル、キャピタリズムの存続のために」と言うところにたどり着いたが、そこに通そこするのは「権力者のために働け」という愚にもつかない妄想である。
確かに古来は「働かざる者食うべからず」という言葉などが私たちの脳裏に染みついています。これは言葉の形を変えて、私たちが都合よく動かされるものとして君臨し続けてきたわけですね。
AIの登場で変わる社会について
AIと私たち
AIの登場の良い側面
AIの登場は私たちの良い方向に導くのか否かという点については、大いに興味を抱く人は多いと思います。
著者はもちろん、良い側面とそうでない側面について触れています。まず良い側面についてはこのように言っています。
多少バラ色の話をすれば、AIの導入によって製造コストが安くなった製品を、今までと同じ価格で売れば、儲けは莫大になるから、儲けの一部(大部分)をベーシック・インカムの原資にして、製品を買ってもらおうという選択肢がある。
しばしば取り上げられる「 ベーシックインカム」ですが、これについて「原資はどこから?」という課題が当然あります。著者はこれについて、AI登場で浮いたコストを原資にできると言っています。確かにそのような活用法も考えられますね。
AIの登場の悪い側面
おそらく一番の問題は、かなりの子供たちが勉強しなくなることである。
AI登場とベーシックインカムが同時進行すれば、多くの子供は「勉強しなくなるだろう」ということを著者は危惧しています。なぜ勉強しなくなるかというと、現在は「将来食えなくなるから勉強しよう」とモチベーションがありますが、働かなくても食えるとなれば、勉強をしなくなる人が増えることは明白だというわけです。
もちろんそれでも勉強する人は一部いるけれど、勉強しない人が多数の国の未来は現在もうすうす見え隠れしていることに予見しているようです。
今の日本人を見る限り、大半の国民は無教養の烏合の衆になりそうな気がする。政治にも国際情勢にも興味を示さず、芸能人のスキャンダルや、オンラインゲームにうつつを抜かして、人生を棒に振ってしまう人も今よりずっと増えそうだ。
AIやベーシックインカムの登場以前に、素手の現在の日本人の状況が、「無教養の烏合の衆」に近づきつつあるというわけですね。
市場原理が成果主義がもたらす弊害に
市場主義と教育現場について
本来、市場主義はビジネスのような場面で必要とされる概念です。ところが現代では至上主義がすべての価値観を支配しつつあります。それがさらには教育の場にまで持ち込まれています。
市場原理と成果主義
著者は教育現場に市場原理を持ち込むことの無意味さと指摘しています。著者は大学教授だったわけですが、定年退職しても特に寂しくも嬉しくもなかったといいます。その理由はそもそも、教育という本質がそういうものだからだったようです。
なぜだろうとつらつら考えるに、大学で講義をするのは、私の人生にとって虫取りや理論書の執筆に比べれば、些事だったからだろう。
教育の場で仕事を指定はいたけれども、そもそも学ぶことは誰かに与えられるたぐいのものでもありません。著者はあくまで仕事として大学で講義をしてきたけれど、それをどう咀嚼するかは学生側であるので、定年だからと言って講義に思いをはせるようなことはないのは著者としては自然な流れだったのでしょう。
好きな先生や、尊敬できる先生もいたが、私自身にとっては、教師から口頭で教わるといった意味での、教育の効果は全くなかったと、断言できる。
それはこのような文章にも表れています。
学問を志すつもりなら、講義を聞くより本を読んだほうが手っ取り早い。
『SNSという名の麻薬』にはまる恐ろしさについて
では市場主義が教育の場にも持ち込まれているけれど、それがどんな成果を上げているのかといえば、皮肉にも、次のような現象が社会で起きていると指摘しています。
学術書の出版が困難になったもう一つの理由はSNSに代表されるネット社会の浸透であろう。少なからぬ人が本を読んで論理的思考を鍛えることを放棄して、好悪と情緒の世界に安住できるSNSと言う名の麻薬に耽っている。
正確な情報や思考を地道に仕入れることを放棄して、SNSという短絡な情報の味を知ってしまうとそこから麻薬のように抜け出せなくなるのでしょう。
さらに著者は、このような知的収集を怠る弊害を次のように述べています。
知的レベルの2極化は貧富の二極化をもたらし、知的レベルの低い貧乏には、貧乏な自分の現状を改革する方を考えられず、罵詈雑言を履くことで嘘を晴らすしか術がないと言う悲惨な状況になっている。
SNSの文章は過激で突発的なことが多い印象があります。このような現象は、感情を垂れ流している子供の施行と近いこともあります。情報の仕入れ方には十分注意する必要があると改めて感じました。
年をとっても働かせる秘策
短絡的主義がもたらすもの
「人生100年時代」という言葉を何回聞いたかわかりません。著者は、本書で「政府は平均寿命が100歳になるとウソをつき高齢者を働かせ、なるべく年金を払わないで済む制度作りを画策している」と言っています。
さらにさまざまな年金制度改正の方針も挙げています。
さらに現状の日本企業の時代遅れの原因が、短絡主義にあると指摘しています。企業だけではなく、それは個人も同じ傾向あるとのこと。
いわれたとおりに働いて「努力すればむくわれる」という思考パターンを抜けることができない。このようなパターンに陥る原因は教育の画一化にあるそうです。
そもそも学校自体がブラック企業であるので、そこで培ったことはブラックな流れにならざるを得ないのは明白なわけですね。
実際に近く大きな年金改正が実施されます。(2022年)その制度の多くは、好意的に見れば「年を重ねても働きやすくなる制度」ですが、裏を返せば「年をとっても引退できない」ことを意味します。
著者はどんな方?
この著者はテレビにもよく出ていますので、そのイメージが大きいかもしれません。通常はテレビによく出ている方は警戒しますが、この方は異例です。というのも、私はこの本をかなり前から度々好んで読んできた経緯があるからです。
池田/清彦
1947年、東京生まれ。生物学者。早稲田大学名誉教授。構造主義生物学の立場から科学論・社会評論等の執筆も行う。カミキリムシの収集家としても知られる。著書多数
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
さいごに
世の中の見方は、時折著者のように、冷静に客観視できる方の力を借りる必要があります。常に同じ視点からばかり世の中を見たつもりになっていると、思わぬ思い込みがあり、盲点になることが多々あります。
今回は、柔軟な視点を持つ著者の本を紹介しました。参考になればうれしいです。