私は数年前、ただし子供が生まれる前の写真を全捨てしました。
写真を捨てて、数年経た今の感想をお話しします。
もくじ
- 写真を全捨てしてもまったく困らない
- 全捨てで引き継いだ写真
- 「こまめに捨てる」はこっそりと
- 捨てなければ非難されない
- 子供の思い出品保管は親自身のためと心得る
- 保管の価値観は個人差がある
- 物はなくても記憶は残る
- 物理的なスペースを使わなくても同じ
- 捨てれば脳の領域を煩わせない
写真を全捨てしてもまったく困らない
全捨ての理由は特にありません。単にすっきりしたかっただけです。当時いろいろ物を処分していました。その一つが写真だっただけです。
結論、まったく困っていません。後悔もしていません。
むしろ、管理しなければならないことが減って、楽です。
「時々、昔の写真を見たくならないの?」
という疑問については、
「特に思いません。」
と答えます。
厳密にいえば、私が移っている写真は私が捨てても誰かしらの手元にあるんですよね。
まずは実家、妹宅などです。結婚式の写真とか、子供が映っている写真を含めてそれなりにありますからね。
全捨てで引き継いだ写真
そもそもですが、実家の母は私が結婚する直前に家じゅうから私が映っている写真をかき集めて私に手渡したんです。
当時一瞬「え?(いらないの?)」と思いました。
でも母は、あの年代には珍しく私が物心つく頃からいらないものとか、用済みのものは容赦なく捨てる人なんです。
「こまめに捨てる」はこっそりと
現在は捨てることが一般化しました。けれどもまだまだ、このような傾向は少数派です。だからあまり大っぴらに行動はしないほうがいい。
ネット上では捨てる、減らす記事が目につきますが、それは自分の価値観がそうだから、です。まだまだ一般に、捨てることは「冷たい」現れだとみなされる空気があります。それから「もったいない」「物は大事」という価値観です。
例えば親が幼いころのおもちゃを捨てられなくてとっておいてくれる光景には「親の愛」を感じる空気があります。
けれども実態は、親の愛というよりも単なる過去の執着である場合も大いにあります。なぜそう言えるかというと、自分も息子が成長して、幼いころの思い出品を少しだけ「自分のために」保管しているからです。
捨てなければ非難されない
一般に子供の思い出品の保管は、子供からすれば「私は愛されている」と感じるかもしれません。
一方で「何でもすぐ捨てられた」記憶があれば「私への思いれはないのかもしれない。」とネガティブな感情が起きやすいですよね。だから捨てるかどうか迷ったら、「捨てないほうが嫌われないためには安全」という見方もあります。
子供の思い出品保管は親自身のためと心得る
けれども実のところ、幼いころの記憶が詰まったものを親が保管するのは、どちらかといえば親自身のためです。本人のために保管するのであれば、とうに本人が撤収していくはずですから。
つまりは捨てることができない思い出品というのはある種の執着でもある。ところが単なる執着を「親の愛」とすり替えて自己満足しやすい分、たちが悪いことがあります。
保管の価値観は個人差がある
もちろん、思い出品も全部捨てるほうが偉いとか不要だなどとは思いません。こうしたことには思い入れに人差があるからです。
私はといえば、おそらく「今」ではないものは潔く手放すことで力を温存するタイプなのです。過去に関連したものが、ごちゃごちゃとある空間が苦手。それは良い思い出があるとかないとかは関係ないのです。
物はなくても記憶は残る
そもそもですが、写真は写真を撮るからものとして存在しているんです。本当は過去の画像というものは物としては残っていなかったはず。
人間には記憶があります。もちろん記憶は鮮明ではないかもしれませんが、わざわざものとして残さなくてはならないとは限りません。
物理的なスペースを使わなくても同じ
現代はデータで残せば保管スペースはいりません。当時もそうした方法でスペース不要で保管することができました。
けれどもスペースを使っていないからといって「ある」ことに変わりはないのです。「ある」という事実はスペースを使わなくても私たちの脳の領域を刺激します。
捨てれば脳の領域を煩わせない
なくすのであれば半端なことはしないで、データごと処分したほうがいい。私はそう思います。数年前思い切って古い写真を処分しましたので、今そのことを思い出すことも「どうしよう」と考える脳の領域を煩わせることも一切ありません。