はじめに
現在、世の中全体に流れることの多くは「心配」の嵐です。この気配を私たちは、どう解決したらよいのでしょうか。
一方でコロナの場合は、今にして思えば
「いつかは終わるだろう」
という希望があったと思います。ところがコロナが収束すれば、解決するかと思いきやどうもそうはならない状態にみんなが右往左往しています。
そのときは、そのとき
先日読んでいた本に、解決の糸口を見つけたので紹介します。
それは伴 蒿蹊(ばん こうけい)という江戸時代後期の文章家の 近世畸人伝 (岩波文庫)という著作に出てくる話だそうです。
登場人物は人が通らない山の中の庵(庵)に住んでいます。人里に行くには谷にかけられた橋をわたるしかありません。
それでこの人は
「大水で橋が流されたらどうしよう」
と、心配ばかりしていたそうです。
ところがある時、その人はあることを悟ったそうです。
《我命ある限りは 食 有 べし、食尽 るは我が命の終わる時也、とおもひさだめつれば、 甚 やすし》
(自分の命のあるあいだは食糧はあるはずだ。食糧が得られなくなったときが、自分の命の終わるときだ。そう覚悟すれば、すごく心が平安になった)
のんびり、ゆったり、ほどほどに 「がんばらない菩薩」のすすめより引用
私たちは常に不安な情報を目の当たりにして、びくびくしています。著者もこの個所を読んで気が楽になったと書いています。
私たちの多くは人里離れた場所にこそ住んでいないけれど、別の不安要素を常に探してはびくびくいています。
最近では、
「値上げが続いたらどうしよう」
「食えなくなったらどうしよう」
「コオロギ食べる羽目になったらどうしよう」
「仕事がなくなったらどうしよう」
「住むところがなくなったらどうしよう」
「病気になったらどうしよう」
「この服がダサいと思われたらどうしよう」
・・
と、挙げればキリがありません。
この物語の登場人物が悟ったのは
「起きたら起きたときのこと。」
ただそれだけだ、ということです。
ネガティブな情報を発信すると、頭がよさそうに見える
世の中に流れるネガティブな情報は、それを発信する人が、
頭よさそうに見える
前提が挙げられます。このことは有名な社会派ブロガーなどとして著名なちきりんさんが自分の意見で生きていこう――「正解のない問題」に答えを出せる4つのステップの中で言っていました。
ポジティブな情報は逆に、頭悪そうに見えやすいそうですが、ネガティブな情報を言うと頭よさそうに見えるメリットがあるのだそうです。
確かに
「この情勢は終わらない。だから私たちは逆境に向けて、刻一刻と対策を練らなければならない。」
と言われたらどうでしょうか。なんとなく何でもいろんなことを知っているように聞こえますよね。たとえテキトーに発言したとしても。知的にさえ聞こえます。
一方で
「この情勢はそのうち終わります。人間はこれまで、逆境を乗り越えてきました。だからいたずらに暗くなるのをやめましょう。」
と言われたらどうでしょうか。
「この人は私の不安な気持ちに寄り添ってくれない。何も考えていない。」
という印象を持ちませんか。また、何も知らない考えていない、つまり知的レベルが高いかどうかもわからない印象を受けます。
だから私たちはついつい、ネガティブな情報を探してしまうし、深く聞き入ってしまいやすいのでしょう。そしてネガティブな発信をする人についつい引き付けられます。
不安で過ごした日々は、たいてい心配損に終わる
けれども実際のところ、ネガティブな情報が真実になる確率はいったいどれほどなのでしょう。もし何も起こらなければ、それまで不安で過ごした日々がムダになります。
ほかには以前、私はよく実家の母から「心配だ」という話を延々聞きました。それで私は「心配する必要がなぜないのか」について、彼女が納得して電話を切るまで説得する羽目になった時期があります。たいていは心配損に終わります。
すでに年金を受け取っているのに心配する
例えばすでに、両親とも年金を満額受け取っているにもかかわらず
「年金が減額されたらどうしよう」
というものです。
確かに一度、改正で少し減額されたことはあったようですが、私たちの世代、息子の世代と違い、両親はすでに年金を満額受け取っていて、ぜいたくをしなければ家もあり金銭的な不安要素は基本的にないのです。
仮に再び減額されるような法改正があったとしても、生活に支障をきたすような多大な減額にはならないはずです。
それでも不安要素を探してしまうということは、ある意味幸福だからであり、考える余裕があるということです。仮に減額されてもそのときはそのときなのです。
健康な人が病気におびえるのも心配損
それから年齢を重ねるともう一つ、不安要素に挙げられやすい内容は、健康です。例えば現在50代くらいの年代の人で、特に問題なく健康に暮らしている人が病気におびえているとします。
もちろん、可能な範囲で食生活や運動に気を付ける程度はいいと思います。けれどもどんなに注意しても、病気は「なるときは、なる」んです。それは私がよい例です。
これまで不定愁訴的な不具合はありましたが、基本的に丈夫で健康でした。今でも、ある視点で見れば健康です。
うっかり病にあってもうまく「お付き合い」するだけ
それでも突然の病に遭いました。病は確かによくないし、遭わないに越したことはありません。けれども遭ってしまった以上は遭わない自分には戻れません。
だったら、あとは病以後の体とお付き合いしていくだけです。もっとも、はじめは「お付き合い」のコツがわからなくて、右往左往していました。
「どうして?こんなにトレーニングしたのに」
みたいな感じです。
けれども今は、良い意味でのあきらめのコツをつかみました。わけのわからない不調も好調も
「そうきましたか」
とただ受け止めるだけです。例えば最近も、いつもと同じように暮らしていて
「今回の冬はうまくやり過ごせたかな」
・・と思った矢先のかなりつらい腰痛発症です。けれども今回も、
「ほほう、今回はそうきましたか」
と、新種の不調にごあいさつするだけです。実際はかなり悶絶していましたが、これまでの整体などの傾向を思い出しつつ、いろいろ注意してみたりする実践的な要素はもちろんあります。
そして痛みのピークが落ち着いたら、少しずつまたウォーキングに出ました。途中
「うわ、イタ・・」
と思いつつ、すぐに家に戻れる場所を回りながら
「ちょっとずつ負荷かけていくか」
とちょっとずつ歩行距離を伸ばします。確かにまだ痛いのですが、
「まあ、あと1週間もすれば落ち着くかな?」
な感じで痛みとお付き合いしています。
ところが仮に、この痛みをネガティブにばかりとらえたらどうなるでしょう。確かに痛みをポジティブに考える人はいないだろうし、急性なことや医療機関の受診が必要な場合は治療が優先です。
いっぽうである程度のパターンがある場合は、うまくお付き合いしていくしかないだろうと思うわけです。
ここでやたらと不安になっても良いことはありません。腰痛も持続して痛いわけではないので、忘れていられるときはすっかり忘れたほうがいいんです。
もちろん姿勢に注意したり座りっぱなしは厳禁ですが、自分の良くないことを考えるのもよくありません。
忘れていて気が付いたら治っていた・・というのが理想です。実際、そういうことはけっこうあります。
さいごに
時と場合によるけれど、結構様々なことのほとんどは
「なるようになる」
ものです。
それと
「そのときは、そのとき」
です。人には自分の力でどうにかなることとならないことがあります。どちらにしても、気楽に構えていればいいんです。
例外的なことはむしろ少ないかもしれません。今回も、先ほど紹介した本を読んで、改めてそう感じました。
最近の不安な情報におびえている方の、心を軽くするヒントになればさいわいです。