はじめに
今回は、周囲の状況に反応しすぎて疲れてしまう方の何らかの参考になればと思い書いてみました。
私は地方出身なので、あらかじめ覚悟はしていましたが、当初は人の多さに疲れました。けれどもほどなくして、ある方法でそんな環境を回避するすべを身に着けました。
そしてそれは、単に混雑する環境にとどまらず、様々な場面で応用が効いています。もちろん例外はありますが、その方法でかなり軽減できていると感じます。
地方は良くも悪くも相手に反応しすぎることがある
私の出身である、とある地方では良くも悪くも、周りの言動を細かくチェックする傾向があります。
それは背景と理由もあり、推測ですが人が少ないことと、娯楽などほかに興味を引くことが少ないため、などのほか(他人のチェックがある種の娯楽になっている可能性)、多少自然が厳しいので、お互いに助け合いの精神が実質的に必要(相手に異変があり困っていないかを確認するため)だからだと思われます。
相手を観察する慣習は、良い面とそうでない面があります。良い面は何かあったときにすぐに助けてもらえるようなことです。
反対に良くない面は、プライバシーが保たれにくく、服装や帰宅時間、交友関係、家族の家への出入りなどがチェックされていることです。ただしこれも裏表で、防犯という面では良いと思います。見慣れない人や、異変が起きたらすぐにわかるからです。
このように私の出身地の場合ですが、良くも悪くも周囲の人に反応する頻度が高めです。これを「心強い」と感じる人もいれば負担に感じる人もいることでしょう。
私は負担に感じる方でした。ただし戸建てで皆同じころに住み始めたご近所さんで、幼いころはそれなりに楽しく交流していました。
自分の心なのに、なぜ相手に主導権をあずけるのか
心を開放しすぎた結果、しばしば相手の反応によって自分が喜んだり悲しんだり、悩んだり苦しむ現象はありがちです。
でも、ここで考えてほしいのは、自分の心の主導権は自分だということです。それなのに多くの場合、相手の言動で自分の心が左右される現象が多々あるわけです。
であれば方法は案外簡単なのです。自分の心を他者にゆだねないことです。具体的には、相手の反応や言動で自分の心を動かさないことです。
それはマイナスなことにとどまらず、一見プラスに思える誉め言葉なども同じです。
人が多い暮らしで得た心のありかた
このように地方で暮らした私は、良くも悪くも相手の反応を気にする習慣が付いていました。ところが十数年前に首都圏に越したため、突然環境が一転しました。
それは他人に干渉しない環境です。これは快適でした。ところが快適を通りこして、大きな駅ともなれば人が多すぎて物理的に混雑して疲れます。
ところがそれでは暮らせません。そこである時から自然発生的に身に着けた方法があります。それは心を無にすることです。
例えば駅で大混雑の人の間を縫って通るときは「うわ~混雑している~いやだ~」と心で反応するのを一切やめるんです。
心を無にしてしまいます。何も感じず、ただ「人がいる」という目の前に見える光景だけを淡々と認識するだけで、あとは危険がないように黙々と歩くのです。
するとどんなに混雑していても全く疲れなくなりました。以前はいちいち相手の反応やどんな人がどんな雰囲気で歩いているかということに心で反応していました。それは生まれ育った地方の人が少ない環境からくる習慣です。
ところがこちらは人が多すぎて、いちいち服装がどうとかどういう人がいるとか反応していたら脳がパンクします。もちろん明らかに微妙な人がいたら注意を払いますが。
相手の内面に立ち入らない美容師さん
それと例えば美容院に行ったときたまたま担当してくれた同年代の女性の美容師さんがいました。手さばきもいいし、特になんということなく世間話をしながらカットしてくれます。
けれどもこの時も以前の地方にはなかった感じに気付きました。それはその美容師さんは、愛想よく会話しながら振舞ってはいますが、決して私に心を開いてはいないのです。
それは悪い意味ではなく、美容師さんも過剰に私の内面に立ち入らないということです。以前の地方では、初対面の人との会話は(人にもよりますが)まず相手の素性をさりげなく引き出すのが基本でした。
そうしているうちに相手の自宅場所、出身校、同級生、部活動、兄弟姉妹、親戚などの情報が芋づる式に引き出され、10分も話せば誰かしら知り合いに行きあたるという状況でした。
つまり良くも悪くも相手の素性を探りながら、相手の内面にまで入り込みながら会話をするというのが普通だったのです。私はそれが苦手でした。(そういう会話が好きな人が多かった印象があります)
ところが現在の住まいに来てからは、美容師さんも決して自分からは相手の内面に立ち入らないのです。
そういう環境を「都会の人は冷たい」と感じる人もいるのでしょうが、もともと人の内面にいちいち立ち入りすぎる慣習が苦手だった私は、「こういう環境もあるんだ」とうれしくなりました。
心の扉は必要以上に開放しない
以前の地方暮らしは良くも悪くも「心の扉」を開放しっぱなしでした。だからいちいち相手の反応に一喜一憂して時に悩んだり疲れます。
ところが現在の首都圏の暮らしで心をむやみに開放しないで生活するすべが身に付きました。
結果としてそれは、よくない心の反応だけではなく、一見良いと思われる心の反応もしないということです。
例えば、混雑する人ごみに「いやだな~」と心を反応させずただ目の前の現象を淡々と処理していくイメージです。そうすればどんな人混みも疲れずにいられます。
また、人との対面でも会話でも、やはり、むやみに心の扉を開放しないようにします。もちろん状況に応じた行動や言葉は発します。けれどもそれと心を開放するかは別です。
そうしないと人が多い環境ではとてもじゃないけど疲れてしまいます。
マウンティング発言にも無傷
心の扉を必要以上に開放しなければ、良くない相手の反応にあっても無傷でいられます。例えば相手がマウンティング目的で何かを言ったとします。けれどもこちらはそもそも心の扉を開放していないので、何を言われても単に言葉という音が右から左に流れるだけです。
褒めの発言にも反応しない
反対に相手に何か褒められたとします。この場合も心の扉を開いて喜ぶようなことをしないようにします。(とはいえ、ほめられるとつい扉がゆるみがちですが)
例えば「その洋服、素敵ですね」と褒められたとします。この場合も相手のお褒めの言葉に対して「ありがとう」とお礼を言うマナーは遂行しますが、そこで喜ぶという心や「どうして?」と戸惑う心の反応も一切しないようにします。
ほめられるという、一見プラスの相手の反応も、マウンティングというマイナスの反応も、相手の言動に反応して心の扉を開けば同じことです。
感情を開放しすぎるメリットは少ない
一見、心を自在に活用することは、人として素晴らしいことだと思われています。確かにいかにも人らしいし、感動するとか嬉しい、悲しい、怒るという感情すべてが人間らしさです。
一方で、そうした感情を活動しすぎてよい結果になることは少ないと思います。むしろ逆のことが多いのです。
心に常々抱いていた感情を思いっきり相手にぶちまければいいかというとそうでもない。もちろん我慢しすぎは良くないけれど、吐き出してこちらがすっきりしても、相手もそうだとは限りません。
発した感情と言葉は10倍に膨れる
そして一度発した感情や言葉は、内面に抱いていたより10倍くらい膨れ上がると感じます。
だから百歩譲って相手に言葉で示すときは、当初の予定の20分の1くらいで十分です。それでも相手にとっては自分が思うより100倍くらいのインパクトがある可能性があります。
マイナス感情ほど大きくなる
不思議なのは、マイナスの感情ほど、内面に収めていた時より言葉として発すると突然雄弁になるということです。だから心の扉は良いこともそうでないことも、むやみに開放しないほうがいいということを学びました。
「相手の気持ちを考える」とは
もちろん、こうした意見には異論や違和感を抱く人が多いことでしょう。何せ私たちは小学生の頃から、なぜか国語の時間に「気持ちを考えてみましょう」という学習を積んできたからです。
もちろん、相手の気持ちを考えて相手が嫌がること、つらいと思うことをしないことは大切です。そうした学習は大事です。
一方で気持ちなんて自分のことでさえよくわからないのに、考えすぎてかえって苦しくなってしまうという現象がおきます。
けれども、そもそも自分が普段から心の扉をむやみに開放するクセを付けていなければ、そうした悪循環を生まずに済みます。
このような慣習を、地方から都会に出てきて人混みの中でたまたま習得したわけですが、こうした方法をもっと早く知っていればと思います。
さいごに
さいごに
今回は、地方出身の私が都会に出てきて暮らし始めて得た、心の扉の扱い方についてお話ししました。
心の扉は必要に応じて解放と閉じることを使い分ければ、ダメージを受けることなく淡々と生活することができます。
けれどもこれはある程度の慣れと訓練が必要だと思います。まずは混雑する人混みを「混んでる~いやだ~」という心の扉を開放しないことから始めるのがおすすめです。混雑する人混みを見たら、「人が多い」という現象だけを認識する。あとは淡々と人混みを縫って移動するだけです。
同じように、例えばマウンティング発言を聞いても、その言葉の意味を考えるようなことは一切しなければいい。ただの音声だと認識すればいいんです。
反対に褒められても決して舞い上がらない。たとえば「その洋服素敵ですね」と褒められても「褒められた」という現象だけを受け止め自動的に「ありがとう」とお礼を言うだけ。
このように御しがたい心の扉は、むやみに開放しなければいい。本当に必要な時だけのために取っておきましょう。