
はじめに
生活するからには、何らかの物は必要ですが、実はたいした数や量はいりません。
けれどもこれまでメディアやSNSに影響されて、どれほど余計な消費をしてきたでしょう。
物は手に入れると、急に熱が冷める特性があります。
はじめはどんなに気に入っていても、次第に日常と化していきます。
けれども体験はそうではありません。
形に残らないけれど、自分の中で消えることがありません。
今回の話は、これまでの常識を覆す要素があります。
取り入れるか取り入れないかは、その人の性質、考え方、ライフスタイルによります。
絶対的なものではないので、
「このような選択もある」
という認識で読んでください。
物はそもそも誰のものでもない
そもそもですが、物は誰のものでもありません。
土地も誰かの所有物だったわけではありません。
地球があり台地がある。
そこにいつの間にか誰かが所有を主張してそれが制度化された、ただそれだけのことです。
家という物体もそれを形どっている木やコンクリート、鉄なども地球の資源が形を変えただけです。
とはいえ、現代はそれを生み出す過程に所有権があり、生産する労働力があり、販売ルートが存在します。
それを無視はできませんが、根本的な物の性質と所有はその程度なのです。
賃貸か持ち家かの議論の無意味さ
よく議論される
「賃貸か持ち家か」
この議論は主に金銭的な損得をもとに議論されます。
答えは人それぞれなので正解はありません。
ただ、これだけは言えます。
もともと、持ち家の所有権を主張して実際に法的効力はありますが、真実はすべてが机上の空論だということです。
現代の社会システム上は所有というものが明確ですが、地球は誰のものでもありません。
自分の体も同じです。
一時的に借りているだけなのです。
体験するために生きている
今、この世に生を受けて生きているのは
「体験するため」
とも言えます。
自分という、役者的存在を演じる体験をしているんです。
体験するために生きているんだから、物を手に入れることに躍起になるのはもったいないといえます。
固定された人間関係が比較と見栄を生む
物を手に入れることに夢中になりがちな理由として
固定化された人間関係
があります。
固定化された人間関係が起きる前提には
「定住」
があります。
人は農耕を始めたから定住して持ち物の量が貧富を生みました。
貧富はそのまま力関係に直結します。
その名残があるので、人はできるだけ自分を実際よりも裕福に見せようとします。
例えば小学校に入学して同じクラスの生徒同士になると、毎日目にするのでお互いの服装や持ち物が目に入ります。
するとそれが次第に比較対象のきっかけになります。
「○○ちゃんが○○のペンを持っている。うらやましい。ほしい。」
というように、です。
毎日のように顔を合わせる知り合い同士では、持ち物や着ている服の比較が生じます。
一方で知り合いでも年に数回しか会わない「いとこ」と比較はほとんど起きません。
それは仮に今日、お盆に会ったいとこが、かわいい服を着ていたとしても、来週から会うことがないためあまり気にならないのです。
同じように道すがら見かけた女性のバッグについて、現実的な比較対象として見ることはありません。
せいぜい
「あのバッグ、どこのものだろう?」
との探求心や
「あのバッグ素敵。やっぱり私も買おうかな」
と思うくらいのきっかけに過ぎないものです。
少なくとも嫉妬したり、うらやましくなったりすることは基本的にありません。
固定化された人間関係が希薄だと見栄消費はいらない
現代社会は人間関係をゼロにはできません。
ですがその人の選択次第ではその範囲を減らすことができます。
そうすると固定化された人間関係が減ります。
結果として見栄消費は不要になります。
一方で、
- ママ友
- 同僚
- 元同級生
- 趣味サークル
- 町内会
などの固定される集まりに関連すると、とたんに見栄消費が必要になります。
意外に田舎のほうが見栄消費が多い理由として、固定化された人間関係
と離れることができない点が大きな理由の一つでしょう。
物に振り回されず、自分行きたい体験を重視するコツ
物にふりまわされず、自分がやりたいことを実現する方法は難しくはありません。
それはできるだけ、固定化された人間関係を作らないことです。
ここで言う固定化された人間関係とは、夫婦などを指すのではなく、家族以外の関係性のことです。
もちろん、
「人と交流するな。」
と言うのではありません。
少し固定化された人間関係を少し減らし、ランダムな人間関係をメインにすることで自然と見栄消費は不要になります。
「体験」は他人に話さない
ここで肝心なことがもうひとつあります。
それは自分が実践した(他人から見て良い)「体験」を他人に話さないことです。
例えば同僚が旅行に行った話をしたとしましょう。
そうするとつい、自分の旅体験を話したくなります。
が、そこをスルー。
聞き役に回り自分の旅話はしないが鉄則です。
筆者は時々このブログに旅ネタ,外出ネタを書いています。
ですがこれらは実際の体験の5%くらいのものです。
自分のブログの流れに必要だと考えるときだけ、前後の流れを計算して記事を書いています。
なぜ他人に話さないかというと、旅ネタはどうしても人によっては自慢に聞こえるからです。
顔には出さなくても内心、不快に感じる人もいるかもしれません。
旅はぜいたく品と考える人がまだまだ一定数います。
だからほとんどその手の話はしないに限ります。
むやみに他人に話さないことで比較と無縁の体験が生まれる
むやみに他人に「体験」を離さないことは相応のメリットがあります。
それは比較のための体験をしなくなることです。
誰にも話さないので、他人からうらやましいと思える旅や食事、外出、買い物とは無縁になります。
本当に自分が望む行動をするようになります。
ところが体験を他人に話す前提の場合、相手から称賛されることが知らず目的になることがあります。
そうなると賞賛と承認を求める物を買う行為と変わらなくなります。
まとめ
- はじめに
- 物はそもそも誰のものでもない
- 賃貸か持ち家かの議論の無意味さ
- 体験するために生きている
- 固定された人間関係が比較と見栄を生む
- 固定化された人間関係が希薄だと見栄消費はいらない
- 物に振り回されず、自分行きたい体験を重視するコツ
- 「体験」は他人に話さない
- むやみに他人に話さないことで比較と無縁の体験が生まれる
- まとめ
- さいごに
さいごに
今回は「モノ重視から体験重視の新ライフスタイルを作る意外な方法」という話をしました。見栄消費の意外な原因は一つに固定化された人間関係にあるという話をしました。
ある程度の固定された関係性は不可欠ですが、ときに行き過ぎると行き詰まりを感じ、閉塞感にストレスを感じることがあります。
またメンバーが変わらないコミュニティ間では、自然と互いの持ち物や服装が比較対象となりそれが見栄消費に拍車をかけます。
そのため固定化された関係はほどほどにとどめることで、モノ重視から体験重視のライフスタイルを作りやすくなります。
参考になればうれしいです。