今回は、高齢者の母の長電話の付き合い方に関する話をします。
といっても母はボケてもいないし、基本的に健康です。
ですので
「その程度?」
と思われるかもしれません。
確かにその程度の困り事なので、介護などの負担もなく私は助かります。
私は現在、本当に長電話が体力的に健康的に無理なのです。母にはそういうことを言っているのですが、長年の習慣で、話しているうちに忘れてしまうようです。
通話は10分を超えないように注意しています。その時間を過ぎて電話で話をしているとほんとに頭痛と以後の疲れが出ます。
私は3年前に脳血管疾患をやっているので、こうした些細な疲れには注意しています。母には「5分が限度」と言っているのですが、実際はその何倍にもなります。
そこで先日は、ちょっとしたことを試みてうまくいきました。
初めに結論を言います。それは一切会話に反応をせず、スマホのスピーカー機能をオンにだけしておくだけ、です。
これは意味が2通りあります。
- 1つは私の健康的なラクさの問題、
- もう1つは今回の話のメインで、「深入りせず、ただ好きなように母に話させておく、ということ」、です。
通話はスマホを耳にあてないと、だいぶ機能的な疲れが軽減します。以前はイヤフォンなどを使っていたのですが、それより効果があったのはスピーカーで音声を聞くことでした。音は耳から離れているほどよく、耳に触れないほどよいみたいです。これはあくまで私の場合ですが、なんともない方も気づかないだけで実は同じだと思います。耳が疲れるというより、脳が疲れるんですよね。
母とは固定電話ではなく、スマホで通話をしています。理由は単純で、スマホで私が10分かけ放題のプランを使っているからです。
母には私の方からかけ直して、通話代がかからないようにしています。と言うわけで、私は通話の時間が10分を超えないか時間を見ています。
そして10分が近くなってくると、いったん電話を切ってかけ直しています。そうしたときに普通なら、自分の電話が長くなったことに気づいて終りにしそうです。
ところが、母とにかく話をしたいようで終わりません。私のほうも、適当な理由を言ってそのタイミングで終わらせれば良いのですが、それだと不完全燃焼のようでかえってめんどくさくなります。
そこでもう一度電話をしなおします。10分になりそうになったら
「ちょっと一旦切ってかけ直すね。」
と言って電話を一旦切ります。
そしてちょっと深呼吸をして、目をつむり30秒ぐらいしてからもう一度かけ直します。
そして「もしもし?」とだけ言ってまた通話を開始します。すると母は喜んでまた話を始めます。
そして私はスマホの通話のスピーカーをオンにしときます。そして一応話はなんとなく聞いていますが、基本的にそれについて何も反応せずひたすらそのままにしています。
それとまた10分近くになるので、同じように一旦通話を切ってまたかけなおします。
このようにしていたら、先日は3回目の通話、つまり30分ぐらい経った時点でやっと母は気が済んだようです。
「私ばかり喋っちゃったね。」
と言い、
「疲れた?頭痛くない?」
と言い、満足したように自分から電話を切りました。
私の母は、現在80歳位です。幸いに頭もしっかりしているし、足腰も特に問題はありません。年相応のちょっとした不調や膝の痛みなどはあるようですが、基本的に健康です。
基本的に、若い頃から現在も、こうした様子に大きな違いはありません。電話がかかってくるととにかく話が長いのは今に始まったことではありません。
それでも以前は、私も相手をしていました。ところが母のほうではなく、娘の私のほうの健康状態が変わってしまいました。だから以前のようにまともに相手をすることができなくなりました。
けれどもそれがきっかけで、これまでは、母の話に対して1番良くないことをやっていたと気づきました。
それは母の話にまともに取り合い、適切な回答をしようとしていたことです。
母に限らず特に女性はそういう面があります。会話で問題を提起している間に見えて実はそうではないんですよね。
基本的に自分が正義で、周りが間違っている、そしていかに自分がその点で困っていて我慢をしていたり努力をしているか、という話が基本です。
私も含めて、およそ話の9割が人の話の多くはそんなものです。
さらによくよく状況を知ってみると、母の場合は同じ話を妹にもしています。同じ話を2人の娘にしています。
つまり何か例えば「困った」とかいう話をしているのはあくまで建前なんです。すでに自分の中では答えが出ています。だからそれに対してどうのこうのと意見をしたり提案をするのは無意味なんです。
だから実は、ひたすら否定も肯定もせず黙って聞いてればよかったんですね。そうすれば母は納得して気が澄むわけです。
そもそもの望みが話を聞いてもらうこと。娘がいると母親と言うのは、ある種聞いてくれるから、長電話にもなるものだなという気がします。
私の場合は息子1人ですが、私に対しては非論理的な話の聞く耳を持ちません。基本的にこのような無意味な話をしようものなら、鼻であしらわれてエンドです。
夫の場合も基本的に同様です。意味のない非論理的な話には乗ってきません。最近ではそうしたことを言及するようにしたら、表面上は一応、聞き流しつつ聞いてくれるようにはなりましたが。
我が家の場合は、2対1でそうしたことは当然だという空気が勝っています。だから母のような話はしようがありません。
こうしたことが日常なので、息子しかいない場合は、母である自分も初めからあきらめています。「実は答えを求めてない相談」のような会話をする事はしません。
今回のように一切反応せずスマホのスピーカーをオンにして、ひたすら相手に話をさせておくこと。
何もしていないのに、それで満足した母の状態は、傾聴という心理学的な方法に近いのかもしれません。私もたまたま本で知ったのですが。→傾聴力~相手の心をひらき、信頼を深める (だいわ文庫)
傾聴とは、相手を否定せず肯定もせず、ひたすら相手の言い分を聴く方法です。
考えてみればこうした事は、全てにおいて必要なことなのでしょうね。
私たちは何かにつけ、ある出来事や話を聞いたときに、それに対して反応しようとしてしまいます。
そして多くの場合それは、何らかの反論や提案をしようとしてしまいます。さらには自分が勝とうとしてしまいます。
ところが人が必要としているのは、「そこではない。」ことが多いのでしょう。
母の場合も、話をしていて「困った」とか言う話をしても、実は求めているのは困ったことへの解決法ではないんですよね。
とにかく自分のことを肯定してもらい、話を聞いてもらうこと。求めているのはそれだけなんでしょう。
それでも、「良かれと思って。」と言うことではあるのですが、提案をしようとしてしまいます。でも実は、提案しようとすること自体がエゴなのです。
ある程度の月日を生きてきた大人ですから、答えはすでに自分の中に出ているんですよね。
次回も電話がかかってきたら、今回のような方法で対応しようと思います。もちろん、話は聞いているし、ときには相槌もうちますよ。
まずは何より、このように恵まれた状況をお話しできること自体が、ありがたいことです。