かつて欲しいと思った物は、ひと通り手に入れてしまった
それにしても最近、いわゆる物欲がなくなったことに気づきます。ただしそれは、物が必要ないわけじゃないんですよね。そもそもなのですが、かつて欲しいと思った物はだいたい、手に入れ終えた感があります。
そもそもですが、生きていくのにそんなに多くの物は必要ありません。だから物欲がなくなっていくのは自然の成り行きといえます。
それらを手に入れる前は、手に入れたあかつきにはバラ色の人生が待っているようなイメージがありました。ところが実際に手に入れてみると、当たり前ですが物を手に入れることと充実感とか幸福感は全く別物だと実感します。
例えばかつて「欲しい」と思った物の例としては次のような物があります。
- 家
- 車
- ブランドものなどの服やバッグや靴など
- 有名な観光地への旅行
- 家具家電
この中で最も金額が大きいのは家です。子供が幼稚園入園前に新築の戸建てを建てました。(現在は転勤を機に手放し賃貸住まい)数千万円する買い物でさえ、うきうきしたのはひと月ほどでした。それを過ぎたら何とも思わなくなりました。そのせいというわけではありませんが、家を建てて2年後に夫に転勤の話が出た際、ちゅうちょすることなく家族3人で夫の赴任先で暮らす道を選びました。実際にその家を手放したのはそれからさらに数年後ですが、この経験は以後の物欲に大きな影響を与えたと思います。
次に金額が大きいのは車です。かつては夫と私がそれぞれ普通自動車を所有していました。(それぞれ独身時代から所有、当時地方に暮らしていたので必要ということもありました。現在は上記転勤時に手放しました。)はじめは2台を1台に減らし最終的にすべて手放しました。
結婚直後は家具家電を多額の家具家電雑貨、着物まで購入しました。(上記転勤時にほとんど処分)
独身時代から既婚後にかけて、ブランド物のバッグも手に入れました。数は多くありませんが、今にして思えばあの支出は謎です。(昨年、ほとんど手放しました。)
どんな物も手に入れれば慣れてしまう
「手放さなければよかった。」と思うものは1つもありません。特に家に関しては当時かなり迷いましたが、あの時決断しておいてよかったと思っています。
結婚時にそろえた大物家具も手放すことにかなり迷いました。けれどもそれは所有しているからこその執着でした。手放してみれば、身軽で「なぜあんなに迷ったのだろう。」と思います。
ある意味、考えうるほとんどの物は一度手に入れた経験をしています。だから気が済んでいる側面もあるのでしょう。例えば新築一戸建ても、実際に住んでみると一か月もすれば良くも悪くも慣れます。
大きな家具家電は引っ越しのたびに荷物になり、費用が跳ね上がります。着物はそもそも、実家の母が見つくろってきて購入を決めたものです。これは一度着ただけです。
最近、買い足すことがあるささやかな物はこの程度
一方で最近では、パソコン、タブレット、スマホ、アップルウォッチなどデジタル家電を主に手に入れています。これらは飾り物ではありません。誰かに見せるためではなく必要だし使うから買ったものです。
現在は、「欲しい」または「必要」と思って買うものはせいぜい、ユニクロの服とか、本くらいのものです。あとは食品ですね。食品といっても私はアルコールを一切のまないので、いたってシンプルな構成になります。
本は読める冊数には限界があります。だからほとんど金額を気にしないで気になるものを片っ端から買っても金額はたかがしれています。ユニクロの服は、いくら安くても買いすぎればそれなりの金額になりますが、ほどほどの買い物に徹すれば大きな金額にはなりません。
娯楽としての映画、ドラマ、音楽などはアマゾンプライム利用など、でたいした費用も掛かりません。これらの利用で十分すぎるくらいです。
今、改めて欲しいものを聞かれたとしても(誰も聞かないけど)「ユニクロで適当に服を買い、気の赴くままに読みたい本を買えば十分満足」という感じです。
あとは2,3年に一度、パソコンやタブレット、スマホを買い替えるくらいの物欲です。
洋服に関しては心の底からブランド品とかを着たいとは特に思いません。それは靴、バッグ、アクセサリなども同じです。
しいていえば、アウターなど機能性が良いのでメーカー品を買ったなんてことはありますが。その名前にひかれて購入を決めるみたいなことはないですね。
外食も旅行も多大な期待はしていない
外食はそもそも今はコロナの影響がありますが、終焉したとしても、そこに食の充実を求めることはありません。せいぜい、外出時に休息するための場と、ちょっとした気分転換の目的ですね。食は自宅でふんだんに必要な食材を取り入れたほうが安くて新鮮でおいしいからです。そもそも外食と自宅の食事は目的が違いますしね。
たまに旅行に行けたらいいなとは思いはします。けれども日本は狭いので、どこに行っても大きな差がありません。
地方に住んでいたころは、例えば東京に遊びに行くことは特別で非日常でした。ところが東京が日常の範囲になってしまうと、「日本はどこも同じ」だと気づきます。
確かに都心のごく一部は華やかで目新しい場所があり、一部は富裕層といわれる人が住む豪邸が並ぶ場所はあります。そういうところを除けば、少し離れればどこも同じような景色ですね。
もちろんそれでも、あえて「旅行」という形で移動という非日常を楽しむことはあるかもしれません。けれどもそれは、かつての物欲的な旅行のような、ある種のステイタスではなく、あくまで非日常を作り出すための行動ですね。
これから先も現在も、ある程度の物を買い、何かに興味を持ったりしながら暮らしていくと思います。けれどもかつての物欲とは変わったと痛感しています。
お金はあるほうが自由度と選択肢が増える
考えてみると、このような感覚でいればお金はたいして必要ありません。結果として無理も我慢もしなくても、お金が足りなくなることはありません。
ただしお金はそんなに多くを必要としませんが、だからと言って「少しでいい」とか「いらない」と思えるような仙人的感覚は持ち合わせていません。とはいえ、お金はあくまで道具に過ぎません。道具なので必要以上に妄信はしません。
けれどもお金はなんだかんだ言って、ないより断然あったほうが便利です。お金の有無で選択肢が広くなります。だから使いたいときに道具としてのお金を使えるようにしていきたいですね。
そのためには無駄に減らさないように注意を払い生活をしています。同時に、お金を地道で堅実な方法で、ある程度は増やす視野も大事だと思っています。それには色々調べたり考えたりすることが欠かせません。
物欲は方向性を間違うと、無駄にお金を減らしてしまう危険があります。そうなると自由度や選択肢を自ら狭くしてしまいます。
さいごに
無意味な物欲は自分の自由度と選択肢を阻んでしまいかねません。そのことに気づけば物欲の根源を見直すきっかけになるのではないでしょうか。