はじめに
今回は、果物の皮をむくことを通して、人間が持つ不思議な力と可能性の話をします。
「果物の皮むきがめんどう」
などと思っている方に特に読んで頂きたい話です。
もくじ
- はじめに
- もくじ
- 果物を積極的に食べる意外なメリット
- ラフランスの皮むきでリハビリ開始
- リンゴの皮むきでリハビリ
- 機能は使わなければ埋もれていく
- 体の機能の不思議
- 感覚のない右手でできること
- 理論上の「できない」と、実際に「できる」は違う不思議
- 手指を使った経験が私を助けてくれる
- 「めんどう」をこなすことは人間そのもの
- さいごに
果物を積極的に食べる意外なメリット
皮むきが必要な果物を食べる習慣は、意外なメリットがあるんです。
皮むきすることは、手先を繊細に動かし使うことです。
これは同時に、必然的に体の機能につながるでしょう。
私は数年前の病で右にマヒがあります。
リハビリを重ねて様々な動作が可能になりましたが、その中でも最も難易度が高く恐怖心があったのが「果物の皮むき」でした。
当然ですが、リンゴの皮をむいて手が滑れば、大けがします。
だからリンゴの皮むきは優先順位を考慮すると、後回しにしていました。
ところが日々、家事の一環の中で、気が付けばリンゴの皮も自分でむくようにしていました。「面倒くさいけど、リハビリだ」と思えば、意外と面倒に思えなくなります。
そして気が付けば今では、リンゴの皮も、難なくむけるようになっていたのです。これは意識していませんでしたが、ある日気づいたんです。
「あれ?そういえば私、リンゴの皮をむいている!」
と。
ラフランスの皮むきでリハビリ開始
もちろん、リンゴの皮むきは病後、初めからできたわけではありません。
恐怖心があり、はじめはピーラーを使ったり、そもそも皮をむかない食べ方を活用したりしていました。
けれども、ある時スーパーで目に付いたラフランスを見てひらめきました。
ラフランスは、皮がやわらかいので、
「これなら安全に皮をむけるかもしれない」
と思ったのです。
早速ラフランスを買い、皮をむいてみました。
はじめは怖かったのですが、皮も実もやわらかいので、なんとかむくことができました。
参考商品(上記画像の品ではありません)
リンゴの皮むきでリハビリ
そのあと、リンゴの皮もむき始めました。
そして、普通にリンゴの皮をむいていることに気づいたのです。
今も右の感覚は大差ありません。だから相変わらず、ほとんど感覚はありません。
だから目視とカンでリンゴの皮をむいています。
この状況は、極端な話、リンゴの皮をむけなくても当然という見方があるでしょう。ところが私の場合、現状は機能に問題があるのに(感覚がないなど)結果としてリンゴの皮がむけるので、なんでもむけます。
ラフランスは楽勝です。(ちょっとぎこちない断面ですが)
機能は使わなければ埋もれていく
私は数年前、病で右半身の感覚を失いました。感覚だけでなく、動きもいろいろ課題はあります。(見た目には、ほぼ気づかれません)
医療機関でリハビリを受けましたが、それ以後は自分で積極的に「機能を使う」ことの大事さと体の不思議を良い意味で実感しています。
もちろん、希望的なことだけではなく、ときにやるせなさを感じたり、因果関係がわからずに不安に陥ったりと、その経過は一言では表せない日々があります。
一方で、痛感するのは
「体の機能は、使えば因果関係とは違うところで活動しはじめる」
ことの可能性です。
体の機能の不思議
病後はリンゴの皮むきができなかった
例えばリンゴの皮むきは、普通、手指の感覚がないとうまくむけないでしょう。実際、当初は病直後は全くむけませんでした。
というよりも恐怖が先に立ち、ナイフとリンゴを手にすることはできなかったのです。退院直後に、感覚のなさが災いして、軽くて小さいやけどをしてしまったこともあり、なお、「手指を使うこと」の課題を痛感しました。
ラフランスの皮むきでスタート
けれどもある時、思い直しました。たまたまラフランスが目に入ったのです。それがきっかけで、リンゴの皮もむけるようになりました。
ラフランスの皮は、リンゴと違って柔らかいので、手を滑らすようにするだけで、簡単にむけます。ただし、汁がしたたるので、使い捨て手袋をはめています。
感覚のない右手でできること
失われた機能もどこからか引っ張り出してくるようだ
あのとき、感覚を失ったことを悪い意味で受け止めていたら、決してリンゴの皮をむける今はなかったと思うのです。
人の体は不思議です。機能は使わなければどんどん失われます。一方で失われていても、使えばどこかから何らかの力を総動員してくるのです。
結果、どういう理屈なのかわわかりませんが、私は今、感覚のない右手で難なくリンゴの皮をむけるのです。
眉カットも顔そりもできてしまえる不思議
同様に、感覚がなく、時に震える右手ですが、そんな右手で眉カットはさみを持ち、眉をカットするし、剃刀をもって、顔のうぶ毛も剃っています。
普通なら
「危ないから絶対やめろ」
というところでしょうが、その辺は「あぶないからやらないほうがいいかどうか」は自分で判断しています。もちろん「危ない」と思うことは冷静にやらないようにしています。
理論上の「できない」と、実際に「できる」は違う不思議
おそらくですが、何らかの教科書があるとすれば、私の状態では「できない」はずの動作も、何らかの機能が働き「できている」という結果を生んでいます。
それは子供のころから自分で果物の皮をむいたり、マスコット人形を作るのに夢中になった経験だったり、といった、手先を使ったことを体が覚えているのかもしれません。
手指を使った経験が私を助けてくれる
そして、感覚などの機能が失われても、そうした過去の体の記憶を総動員して、本来は難航するはずの動作も、「できる」という結果を生んでいる気がしています。
小さなところでいえば「果物を皮をむいて食べる」という小さな習慣も同じです。手指を使った記憶が体に残り、たとえ機能が失われても、私を助けてくれるのです。
「めんどう」をこなすことは人間そのもの
最近はとかく「めんどう」を排除しようとすることが増えています。確かに私も効率化を取り入れることがあります。
一方で、めんどうをこなすのは、人間そのものであり、めんどうをすべて排除してしまえば、人間ではなくなってしまうように思えるのです。
さいごに
リンゴの皮むきに限らず、果物を皮をむいたり、野菜の下ごしらえをすることは正直めんどうくさい。
けれども「できて当たり前」のことが、ある日突然できない状況になってはじめて、「できて当たり前」ができるありがたさと、幸せの渦中にあることを感じます。
普通は「幸せ」って、心が高揚するようなことだと思いがちです。ところが実際はそうじゃない。
ウキウキしたり、わくわくしたり、笑みがこぼれるようなことじゃない、何気ない日常のあたり前の中にこそ、「幸せ」は含まれていると気づきます。