はじめに
行楽シーズンの秋です。この時期に連想するのは鎌倉の景色です。私は最近、寺が好きです。先日、ふと「そういえば長年の疑問が解けた」ことに気付きました。
その疑問とは、
「もともと寺好きな人が寺巡りをするのか、それとも年を重ねると寺に興味を持ち始めるのか」
ということです。
鎌倉で抱いたかつての疑問
鎌倉には素敵な寺がたくさんあります。十数年前、初めて鎌倉に行ったとき小学生の息子を連れて、まずはメインの観光名所を回りました。
当然、鎌倉には有名なお寺がたくさんあり、女性グループや中高年、高齢者が楽しそうにお寺をめぐっていました。
私たち家族も観光名所としてのお寺をいくらか回ったのですが、その時私は思ったものです。
「みんな、お寺にどうしてわざわざ行くの?」
それで夫に尋ねました。
「ねえ、お寺ってもともと寺好きな人が寺巡りをするの?それとも年を重ねると寺に興味を持ち始めるの?どっちだと思う?私も年とったら、寺めぐりとかするのかな?」
夫はただ
「さあ。」
とだけ、答えました。当時の私は、お寺に行くのは単なる物見遊山でした。
50代半ばの今、答えはわかる
そして現在、答えが判明しました。あれから十数年。私は正真正銘の中高年です。夫と二人昨年、鎌倉の長谷寺を観光しましたが、本当に楽しかった。
何が楽しかったかというと、美しく手入れされた庭も目に楽しめましたが、それだけじゃないんです。心が洗われるというか、すべてを見透かされている気持になるので正直になれるのです。
嘘偽りのない、ごまかしのない自分を目の当たりにできる。素の自分でもいいということを認めてもらえた気持ちになれました。同時にある種、だからこそ身が引き締まる思いもしました。
体力があまりないから、長谷寺一件だけにしましたが、それでも満足しました。
タイトルの疑問の答えは、
「年を重ねると寺に興味を持つ」
可能性が高いと思っています。ただし無条件に、だれでも年齢が上がると寺に興味を持つわけではないでしょう。もちろんまた、若くても寺に興味を持つ人はたくさんいると思います。
あくまでサンプルは私個人ですが、年を重ねていろいろな思いを経験して、寺に興味を持ちました。
物理的なことには限界があると知ってしまう
年を重ねる間に、いろいろな経験をしました。といっても私の行動範囲はたかが知れているものです。
とはいえ、物質的な豊かさがもたらす効果の限界を知った、というのが一番大きいです。例えば、興味あるものは家や車を含めて買って売ってを経験しました。
また、有名大型テーマパークや、都内や近隣の派手で立派な建造物が連なる景色も見慣れました。
もちろん、それを企画し、作った人達は本当にはすごいし、近代的な技術はなくてはならないものです。それらを当たり前のように使いながら暮らしておいてなんですが、時代の変化で変わるようなものに対する興味は、小さなことになりました。
美しい、すごいと感じる興味の対象もかなり地味になりました。
時代を経ても変わらないことに真理がある
結局、時代を経ても変わらないことに、真理がある。それは物理的ではない不変のことだと気付く感じ。そしてそれを表す場の1つが寺というわけです。
年を重ねると、物質的な豊かさに大きな意味がないことを知ってしまいます。だからそれを寺に見出して自然と足が向くというわけです。
もちろん、こうした行動や価値観は人により個人差があるでしょう。子育て時代は、寺には全く興味がなく、それよりもテーマパークをはじめとした派手で華やかな人工建造物に大いなる魅力を感じました。
もちろんそうした景色も、人の工夫や夢が形になったものだから、それも素晴らしいとは思います。
物理的な進行は人の寒い、暑いといった苦悩をなくすことに成功しているし、洗濯機があることで冬に冷たい水を触らなくてもいいわけです。
だから人工的なことも十分人に幸せをもたらしてはいることは知っています。知ったうえで改めて感じるのは、どんなにきれいでもやはり物理的空間がもたらす幸福は、その範囲に限界があることです。
求めるのは心がきれいなこと
では自分が何を求めたいかというと、
「心がきれいであること」
です。
でも、これがまた難しい。ふとした小さな出来事をきっかけに自分の奥に隠れていた、ずるい利己心や見栄などが浮き彫りになる。さらにそれに気づいてまた、自分でがっくりする、の繰り返し。
この心のブレを何とか出来るのは、華やかなテーマパークでも立派な家でも車でも、洋服でもありません。
心の美しさは強さも兼ねる
「心が美しい」
ことは強さも兼ねます。それは場に応じた現実的な答えを出すことでもあります。ところが現実的な答えは、客観的に
「優しくない」
と受け取られることもあるでしょう。
むしろ
「なんて冷たいんだ」
と思われることもある。けれども心の美しさは強さでもあるので、現実的な結果を非難を覚悟しつつ出せることであると考えます。
なぜなら現実的な選択は、共倒れを防ぐことでもあるからです。相手を助けるには、自分がまず自立していないといけません。それでこそお互いに最良の結果を出せます。
さいごに
寺のように、静かに自分と向き合い、正直になれる場を自然と求めるみたいです。人との優劣、例えばどういうところに住んでいるかとか、健康かそうでないかなどは極端な話あまり関係ないのです。
自分の根っこにある心がきれいかどうか。大事なのはそれだけです。本心は自分でも気付かないことがあります。
落ち着いていると油断していたら、ちょっとした出来事でグラグラと揺れる弱い心が浮き彫りになります。
それで
「まだまだ修行が足りないな」
と気付いて、謙虚であろうと思い、同時にゆるぎない強い精神を持ちたいと願うのです。