はじめに
今回は、幸せ、不幸せの解釈と暮らしの取り入れ方についてお話します。
「幸せは積極的に気付くもの」
誰だって幸せになりたいし、幸せに暮らしたいですよね。でも同じ状況でも解釈は人それぞれです。他人から見れば幸せに見えても、本人はそう思っていないことがあるでしょう。
同じく、他人から見ればとても大変そうに見えても、本人はケロリとしているか、活き活きと暮らしている人もいます。
もちろん、その違いをどうのこうのと簡単に他人が勝手に言えることではありません。
だけどこの間ふっと天井から舞い降りるように突然、こんなキーワードが肩のあたりに振ってきました。
それは
「幸せとは積極的に気付いて得るもの」
という言葉です。
同時に
「幸せには敏感になり、不幸せには鈍感になる」
という幸せの得方みたいなことが、キーワードとして急に自分の身に落ちてきました。
幸せは無条件に与えられるものでもない
幸せとはつまり、その人の解釈です。だから幸せを獲得していても当人が意識しなければそれまでです。
むしろ本当は幸せを得ているにもかかわらず、それに気づかず幸せでないことを探してしまうのは、ありがちかもしれません。
ということはつまり、幸せは敏感に察知したほうがいい。例えば
「今日は天気がいい。うれしいな。」でもいい。
反対に出かけようとして雨が降っていたら、
「雨が降っているからホコリが洗い流される。良かった。」でもいい。
ちょっとおなかの調子が悪かったら
「お腹の調子に気づけて良かった。」と思えばいい。
少しの差で電車に乗り遅れたら、
「明日からはもっと余裕をもって出られるように、夜早く寝よう。そういえば最近寝不足だったな。電車に乗り遅れなければ気付かなかった。」
と考えることもできます。
塞翁が馬
塞翁が馬(さいおうがうま)ということわざがありますが、これは大好きな文言(もんごん)です。その時は一見、ついてないように思える現象も、時間や条件が変わればラッキーだったという側面があることをあらわしています。
その解釈をどこで区切るかはむずかしいですが、要はすべて自分に都合よく解釈すればいいと思っています。
解釈をするのは自分
一つの現象の暗い部分をピックアップするか、それとも明るい部分をピックアップするか。その選択をするのは自分です。
例えば自分の場合で言えば、最近の出来事としては、突然の病気が挙げられます。これは確かに普通に解釈すれば病気ですからマイナス以外のなにものでもありません。
だけど、塞翁が馬の視点を持つと実は幸せの要素がたくさん発見できるんです。例えば命があっただけでも相当ラッキーです。
さらに継続的な運動をするようになりました。それで運動する重要性と楽しさを知りました。
もちろん運動しても、結果はなかなか右肩上がりとはいきません。それで初めのうちは、「どうして?」と焦りといら立ちがありましたが、今では「まあ、そんなもの」と余裕をもって客観視できるようになりました。
また、家族も食事に気を付けるようになりました。
それからできないことに目を向けるのではなく、できる範囲でいいからできることに目を向けることにも気づきました。
幸せの発見は野鳥発見と似ている
そしてこの年にして初めて野鳥観察の楽しみも得ました。野鳥は私が生まれrる前からあちこちに存在していました。ですが、察知する気付きがないから存在に気付かなかったのです。
これはまさに、幸せの気づき方と同じだと思いました。野鳥は気まぐれで、いつ自分の目の前に姿を見せるかわかりません。
けれども意識していなかった時には存在すら認識していませんでしたが、意識したとたんに頻繁に気付くようになったのです。
最近の楽しみはシジュウカラという、スズメより少し小さいかわいい野鳥との出会いです。
野鳥ですから、発見してもどうかしようとすることは当然ありません。ただ見つけて観察して、「発見できて良かった」とほほえましい気持ちになるのです。ただ、それだけですが、こういう気持ちになれる瞬間こそが幸せだと思いました。
さいごに
「幸せには敏感になり、不幸せには鈍感になる」
幸せは、あくまで解釈なので、敏感に積極的に察知したもの勝ちです。一方で不幸せには鈍感になる。それをぐいぐいと自覚しても、いいことはないからです。
つまりは幸せになるもならないも、本人次第だと痛感します。
幸せとは漠然としていて人によってイメージが違うことでしょう。今回は、ふと気づいた幸せというものの感じ方の事例を紹介しました。