はじめに
コロナきっかけに、世の中には様々な情報が入り乱れています。そういう時に現れるのは不安をあおる情報です。
今回は、不安をあおられる現象の注意点についてお話します。
もくじ
- はじめに
- もくじ
- 不安を抱くと冷静な判断ができない
- 不安を具体的に解消する情報に飛びつきやすい
- 自分の考えに合致する情報を集めてしまう
- 「最悪のパターンをとりあえず発信しておけば損はない」状況が起きる
- 「あおり」の不安要素は、お金と食品と生活物資
- 生かされているありがたさを忘れない
- 不安の源は結局「執着」にある
- 決して奪われず持ち運び可能なものとは
- 人は知恵を持ち進化している
- さいごに
不安を抱くと冷静な判断ができない
不安系の情報発信をする人は、本人が不安を感じている場合がありますが、そうでない場合は注意が必要です。中には不安が金銭的メリットがあるので、利用しているケースもあるからです。
いずれにしても不安を抱いていると、人は冷静な判断ができなくなります。たとえばコロナ流行直後に、トイレットペーパーが店頭から消えた状態は記憶に新しいところです。
不安を抱いた人が「とりあえずトイレットペーパーを買う」ことで「何か行動した」という安心を得たい心理が起こした現象とも言われています。
不安を具体的に解消する情報に飛びつきやすい
そのため、
「一体どうしたら良いのだろう。」
と不安を抱いているときに
「こうするといいですよ。」
という情報を発信している人に、救いを求めるように依存する現象が起きます。コロナウィルスのことがなくても、世の中には何かしらの不安の様子があります。
そのように得体のしれない情報に飛びついてしまう人がまず、しなければならないことがあります。
それは、
「あの人が言っているから」
のような発想を一時停止することです。必ずまずは自分で調べて考えることです。けれどもこの行為は、根気がいります。自分で調べて考え、判断するのは勇気がいるし、大変です。
ところが何らかの情報発信者の発言をうのみにするのは楽です。人がつい、楽な方に飛びつく気持ちはわかりますが、得体のしれない情報をうのみにしたり、あられることはまた別の話です。
ところがそれを利用するかのように、中にはそれを利用して情報を発信する人も出てきます。結果として、不安系の情報発信をする人は、不安を抱いている人たちのリーダー的存在に簡単になることができます。
もちろん、不安をあおることが目的ではなく、単純に自分が不安を抱いているから自分が考えることを、ただ発信している場合もあります。
自分の考えに合致する情報を集めてしまう
特徴的なのは、人は自分の考えに合致する情報を無意識に集めてしまうことです。対策は、常に反対の見解も情報収集することです。
現状に不安を感じていると、それを証明するかのような情報ばかりを集めてしまいます。
その結果、自分が抱いている最悪の結果は「本当に違いない」と、その不安を確定的なものにしてしまうのです。
世の中にはそれと反対の見解の情報もあるはずですが、こういうときは目に入らなくはります。だから偏った見方を防ぐためにも、情報を集めるときは必ず反対意見も確認することです。
また、ネットがあることで、不可解な話も賛同する人が集まりやすい特性も頭に入れておく必要があります。
「最悪のパターンをとりあえず発信しておけば損はない」状況が起きる
もともと日本は災害が多い国です。そうした中で人々は災害に対する不安と対策と共存してきました。
ですから、不安が現実になる確率はそう低くないと考えるのは、ある意味ではやむを得ない面もあります。
このケースの対策は、一次情報を確認することです。誰が発信したかわからない情報ではなく、まずは国が発信している基本的な情報の確認が欠かせません。
ところが、このようなケースでさえあおり系では「国は信用ならない」といった話で注目を得ようとするケースがあります。
コロナをきっかけとした健康的な不安や、経済的な不安についてですが、不安に付け込む情報が入り乱れるので注意したい点です。
このような場合、「とりあえず最悪のパターンを言っとけば、万が一当たったときにカリスマ的な存在になれる」という不可思議な状態が起きます。
一方で最悪のパターンには至らず何もなかった場合は、単に何も起きなくて良かったと言う気持ちが起きるだけなので、不安をあおる人は受けるリスクはむしろ少ないと言っても過言ではありません。
「あおり」の不安要素は、お金と食品と生活物資
現在のコロナをきっかけにした不安要素については、主に食料や生活物資が不足するのではないかという第一の要素があります。
これについてはコロナにかかわらず常にある程度備えておく必要があるでしょう。特に日本は災害が多い国ですから、台風や大雨地震などで一時的に物資が絶たれる事はあります。
その為、大きなアクシデントに備えるというよりも、日常的な生活の知恵です。淡々とと平常心で取り入れればいいですね。例えば最近は、ローリングストック方法が推奨されています。
その他、お金周りのあおりもしばしば行われます。けれどもこれに不安を抱いたらキリがありません。
一方で、交通事故の不安を感じて外に出ない人はまれです。というかほとんどいないでしょね。
ほどほどの対策は必要ですが、度を越えた対策は、ときにその発信者は
「お金になり、カリスマ的存在になれる」
ことを計算している場合もあります。
もっとも、ある意味では計算して発信しているほうがまだマシかもしれません。本人も心の底から不安を感じて行動していると、むしろこちらのほうが注意が必要です。
生かされているありがたさを忘れない
一定以上のストックは、あくまで個人の価値観と考えですが、それをメインにしていると、何のために生きているのかというパラドックス陥る羽目になります。
私は一度、命の境を垣間見ました。その経験もあるかもしれませんが、第一に命があるだけでも奇跡的に運がいいと言うことです。
ですので、それ以上の事はそもそもが全ておまけだと思っています。
不安の源は結局「執着」にある
もちろん人間ですから、そうは言っても、あれが欲しい、これが欲しい、これが不安だといった思考のごちゃごちゃは起きます。
けれども人が主に不安になって備えているのは、たいていが物であることに注目しています。あとはお金でしょうか。
というのも、過剰に不安を抱く人の多くは備えているものが物です。確かに物は食料を含めて必要ですが、ある種それは執着でもあります。
そもそもですが、命もここにあること自体が奇跡であり、自分の力で存在しているのではありません。これ以上ありがたいことはないのに、そこに執着してしまうと、家の片づけで使わない物に執着することと何ら変わりはありません。
決して奪われず持ち運び可能なものとは
一方で、物ではなく形も何もないのですが、いちど手に入れれば決して奪われないし、どこにでも持ち運び可能なものがあります。
「そんなものがあるのか。」とお思いでしょうか。それがあるのです。むしろそちらを獲得することが大事であり、それさえ獲得すれば生きていけるとさえ私は思っています。
もちろん、私はまだまだ本当に未熟ですから、それを獲得するには全く至っていません。これから順次獲得していくことを意識していこうと思っています。
その決して誰にも奪われず、どこにでも持ち運び可能なものとは「知恵」です。知恵さえあれば人は生きていけます。
人は知恵を持ち進化している
むしろ、その方が物理的な食料や物資を、不安にかられつつ大量に備蓄するよりも必要なことではないかと思っています。
例えば、ユダヤ人は古来から世界中を放浪したと言われています。その際に大切にしたのもやはり知恵だと言う説があります。
食料や物資は、消費すればなくなります。場合によっては奪われたり、腐敗させたり、様々な理由で手元からなくなります。人間の歴史は食料と物資の奪い合いだったといっても過言ではありません。
けれどもこれに執着することは、古来の歴史を彷彿とすることです。現代はもう、奪い合いの歴史に身を潜めおびえる時代ではありません。なぜなら人には知恵があるからです。
奪ったりおびえたりしなくても、現代は解決できる知恵があるはず。そのように人は進化してきたはずです。そうでなければ、私たちは、明日食べるものがなく、いつ襲ってくるかわからない獣や外敵におびえて暮らしています。
ところがもう、そんな暮らしはしていません。それは私たち人間は知恵があるので、そういうことをしなくても生きていける方法を見つけたからです。
さいごに
知恵は、持ち運び可能で、しかも誰にも奪われる心配がありません。現実的なストックは備えつつも、過剰な備えについてはほどほどにして今自分が生かされていると言うありがたいこの現実を受け止めていきたいです。
また、不安の原因は
「持っているものをなくすかもしれない」
という執着する心がもたらしているともいえます。これは、いらないもので部屋がいっぱいなのに手放すことが怖くてできない人と同じです。
執着を手放せば、不安もいらないし、あおる情報にも影響を受けなくなります。
不安ばかりを抱きながら生きる人生と、せっかく与えられた命を生かす人生とはたしてどちらが良いのでしょうか。