はじめに
「楽しいことって、必ずしもウキウキワクワクすることばかりじゃないよね。」
と、常々思います。
好きでやっていることも、直前やその渦中は不安と緊張でいっぱいということは多々あります。
不安と緊張を超えて、そのときは楽しいのか苦痛なのかよくわからない。ところがしばらくして、あとからじわじわと
「楽しかった」
と思えてくるのです。
旅行や負荷高めのウォーキング前は緊張する
例えば筆者は10年前くらいには、単独で低山ハイキングに行っていました。
それ自体は好きで行っているわけですが、出かける直前は毎度、緊張と不安でいっぱいでした。むしろ苦痛に近い心境。
電車に乗ってしまうと、緊張と不安はある程度解消されます。けれども下山するまでは気が抜けません。
「楽しかった~。」
という気持ちになれるのは、帰宅してからでした。
もちろん、歩いているときは楽しんでいるのですが、それでも気は抜けませんでした。
身体的都合上、現在は山歩きはできないので(多分。でも再開はしてみたい。)ロード系歩きをしています。
その場合でも、やっぱり直前も渦中も緊張でいっぱいです。
ロード系一人歩きは常に緊張状態
負荷高めの時があるので、特に一人の時は緊張しています。飲食はおなかがすいているけれど、消化能力が常に低下気味です。
だから出先でおなかの不調をしないように、暑くても冷たいそばなどは食べずに、必ず温かいものをオーダーします。
ロード系歩きも常に緊張状態です。特に一人で歩くときは気が抜けません。
歩いていると、途中に人気店があったりするけれど、大事なのはエネルギー補給と休息をすることです。
緊張で胃の消化能力が低下
そういうとき、飲食店で入店して選ぶメニューは
「おいしい」
「食べたい」
ではなく、
「おなかが不調にならないもの」
です。かつ、少量が基本。
以前、コンビニでイートインがあったので
「たまにはハイカロリーのものを食べないといけないかな」
と思い、唐揚げが具に入ったおにぎりを食べました。
ところがこの後、消化不良気味になり、おなかがもたれて大変なことになりました。幸い飲みなれた整腸剤を持ってきていたので、なんとかしのぎました。
これを教訓に以後、単独のロード系歩きの時は、決して消化が悪そうなものは食べないことにしています。
普段は問題なく食べられるものも、緊張で胃の消化能力が低下しているんですよね。
夫と一緒は緊張軽減するが気を遣う
最近は、夫も歩きについてきてくれる機会が増えました。ただ、安心感が倍増する反面、夫とはいえ気を遣うんですね。
夫主導で歩いているなら、ただついていくだけでいいのでしょうが、ロード系歩きなんていう趣味は、私側の都合なので、
「このルートでいいかな」
「飽きてないかな」
「疲れてないかな」
「トイレ行きたくないかな」
・・などと、気を使います。
うんちくを垂れるのは、夫でも御法度
筆者は、ロード系歩きで長らくトイレがない区間があるとき、(郊外では、コンビニやトイレを借りられそうなところは事前に調べておきますが、まれに数キロないところがありました。地図上はあるけれど撤退していたことも。)トイレに行かずに済むように、工夫しています。
「水の飲み方」というものがあるんですね。山歩きをしている方はご存じかと思いますが、「一気にぐびぐび飲まずに、短期に少しずつ点滴をするように、ちょこちょこ水を飲む」わけです。
けれども夫はそういう飲み方はしないので、お茶類を一気飲みして急にトイレに行きたくなりがちです。
「トイレ行く」
と、しょっちゅう言い出します。
「さっき行ったのに、また?」
ということが、しょっちゅうあります。
原因は、利尿効果のある飲み物を飲んだり、飲む配分を考えずに、一気にグビグビ飲むとそうなりやすいですね。
ただ、それを言うのは口うるさいと感じるだろうから、わかっていても言いません。水分不足になるのは危険だし。
二人で行くと緊張感は激減するけれど、自分のペースは崩れるし、気を遣います。長年連れ添った夫婦とはいえ、単独じゃないから友人同様に、そういう違いはあるわけです。
ある意味、夫婦でも他人のように気を遣う面は必要だと思います。
空腹前に飲食店に入る
夫が最後まで気分よく歩いてくれるために、工夫していることがあります。
空腹気味になると、誰しも不機嫌になりやすいですよね。つまり、早めのタイミングで飲食店に入店して休憩を入れることです。
また、夫と一緒の時は、夫が疲れ切ったり飽きてくるより少し前に切り上げるなどです。
自分一人ならちょっと負荷を高めにしてもう少し先まで歩くのですが、夫は基本的に筆者についてきているだけなので、早く飽きてくるわけです。(観光でも何でもない道を歩くんだから、それが普通)
だから余力がある段階でやめるのが、次も歩いてくれるコツです。
歩く距離が伸びた
筆者は数年前病を起こしてから、ずっと近隣でも数百メートルおきにどこかに座らないと歩けない日々を過ごしていました。
街に
「座るところがない」
ということは頻繁にあります。比較的治安がいいところはベンチがあります。けれども治安がいまいちなところや都心はほとんどないですね。飲食店に入るしか座る手段がないことはよくあります。
そのほか、郊外で普通は人が歩かず車で通行するような区間も当然座るところはありません。
どんなに疲れても、普通座らないようなところに座ると、具合が悪いのかと心配されるか、変な人がいると思われるおそれがあるので、普通は座らないところには何とか座らないようにしてきました。
けれどもそうやって何とか耐え抜いたら、前みたいに、ある程度の時間と距離を、座らずに歩いたり立っていられるようになりました。
当時は実際「苦行」でした。けれどもこの苦行は筆者には必要な修行でした。あの苦行がなければ、今のある程度普通に歩き続けたり立ち続ける状況が戻らなかったでしょう。
苦行だったけれど、「楽」に変換できたのです。
自分のキャパで歩けるペースを守ればいい
もともとハイキングをしていたので、歩くこと自体は好きでした。ただ、自分はもう、前みたいに歩けないと思い込んでいました。
けれども
「一気に歩くのは無理でも、ちょこちょこ歩けばいい」
と気づいたんです。世の中にはすごい距離を一気に歩く人がいますが、そういう人の真似をしなくてもいいのです。
自分のキャパで歩けるペースを守ればいいだけです。
そこから徐々に歩ける距離を伸ばし、100メートル、300メートル、1キロメートル・・という感じで伸ばしていきました。
ただ、こういう訓練は右肩上がりにはいきません。何度も行きつ戻りつです。歩けるようになっても季節が真夏や真冬が間に入るので、その間にまた振り出しに戻ります。
その原因は大まかにわかることがありますが、歩きの調子はいまだに何が原因なのかよくわかりません。
ただ、病直後は右肩上がりにならないことに嘆いていましたが、今は「そういうものだ」と受け入れられるようになりました。
調子が良くても悪くても
「今日はそういう調子」
ということです。原因を深く追わない。
苦行を楽しむ
知らないところを割と長く歩くのは、苦痛と言えば苦痛です。筆者はこの趣味を自虐と笑いを込めて『苦行』と呼んでいます。
ちなみに釈迦は、苦行は意味がないと言ったらしいです。
筆者の「苦行」は最終的に「娯楽」になるので、正確には苦行ではありません。
楽しいことは、苦痛とセット
「楽しいことって苦痛とセットだな」
と痛感します。
むしろ、楽しいだけのウハウハしたことは偽の楽しみのような気がします。これは人それぞれなのですが、少なくとも筆者はそう感じることが多いです。
例えば旅行に行くには予約したり計画立てたり予算を選択したり、たくさん考えなくてはいけないことがあります。
それ自体が楽しい人もいるのでしょうが、筆者はこの計画の段階は割と苦痛と感じます。
出発直前まで天気が気になったり、持ち物や体力のことなど不安で苦痛で仕方なくなります。
出かけなければ苦痛もありませんが、それでは何にもなりません。
江戸時代の人は自由に住んでいるところを出られなかったわけです。けれども例外的に、「参拝」目的は許可されていたわけです。
これらもある意味口実だったことでしょう。そして現代と違い江戸時代あたりの旅は、何日も歩いていかなければならない。時に行き倒れる人もいたわけです。それでも旅という非日常空間に飛び出さずにいられない人々の精神は、まさに楽と苦痛を受け入れることでもあったんでしょうね。
旅に出ずに自分がいる地にいれば行き倒れることも少ないわけですが、人は生きる不便が特になくて恵まれていても、マンネリができない生き物のようです。
現代日本では幸福感が少ない人が多いようです。現代日本で幸福感を得るには、いかにして非日常の感覚を取り入れるかではないかと思います。
手っ取り早いところでいえば、それは旅行などなのでしょうね。ほかには遠くでなくてもいいから知らない場所を歩いてみるなどですね。
もちろん筆者の趣味のようにロード系歩きをしなくてもよいのですが、電車で出かけるくらいの地で観光のようなことをするのも良い体験になるのではないでしょうか。
まとめ
- はじめに
- 旅行や負荷高めのウォーキング前は緊張する
- ロード系一人歩きは常に緊張状態
- 緊張で胃の消化能力が低下
- 夫と一緒は緊張軽減するが気を遣う
- うんちくを垂れるのは、夫でも御法度
- 空腹前に飲食店に入る
- 歩く距離が伸びた
- 自分のキャパで歩けるペースを守ればいい
- 苦行を楽しむ
- 楽しいことは、苦痛とセット
- まとめ
- さいごに
さいごに
今回は「楽しいことと苦痛は1セットで紙一重」という話をしました。最後まで読んでいただきありがとう。