はじめに
今回は「不安がらない人に対する怒りの気持ち」に関する話をします。
結論を言うと、世の中が不安がっているときに、不安がらない人に怒りがこみ上げるという不可解な現象を目にしたことがあります。
「何も発言しない人」に対する怒りはどこから来るか
コロナが開始したばかりのころ、ツイッターを眺めていたら、こんな感じのツイートが目に入りました。
『コロナに関する気持ちや情報や不安な気持ちを、何も言わない人っていったいどういうつもりなの?』(少しアレンジしています)
この発言にはおどろきました。通常、コロナが始まる前からツイッターに限らずそのアカウントで発信する内容や方針はそれぞれでした。それはコロナにしても同じはずです。
ところが当時はアカウントの方針を超えて発信する人が多かったせいかどうか、
「こんなに恐ろしい事態にコロナに関して何も言わない人(ツイートしない人)の心がわからない。」という意味の、怒りがこもったツイートでした。
なぜ不安をやめられないのか
むやみな不安が心身などにも良くないことがわかっていても、私たちは不安がることをやめることができません。
それは当然で、太古の昔、人間は無力でいつ野獣におそわれるかわからなかったからです。他には天候を読むことがほとんどできなかったでしょうし、異変を察知するつまりは不安になることで命を守ってきた過去があるからだと思われます。
直接的な命の危機のほかには、一定の集落を作って暮らしていた場合その仲間から排除されることは命の危険と隣り合わせだったはずです。このように直接的な命の危機のほか、仲間から見放されることの危機もあったわけです。
けれども現代は、こうした危機はある程度克服しています。もちろん多大な天災も時にありますから完全に克服したとは言えませんが、少なくとも通常レベルであれば昔とは比較にならない差で、命の危険は激減したといえます。
仲間に嫌われたからと言って、現代は命の危機などまったくありません。
「何を考えているかわからない人」への不安
それは第一に今風に言えば「何を考えているかわからない」人に、対する不安があると思われます。
- もしかしたら、自分が知らない恐ろしい未来を知っているから黙っているのかもしれない。
- もしかしたら、不安でおびえている私を陰で笑っているのかもしれない。
・・そんなところでしょうか。
そのツイートはログアウトした状態でながめていたときだし、当然私がフォローしているものではなかったのですが、私はそのときまさに
『コロナに関する気持ちや情報や不安な気持ちを、一切、何も発信しない側の人』
でした。だからある意味では、その方に間接的に非難される対象と同じポジションにあったわけです。
もちろん、実際は無関係です。けれども仮にかかわっていた場合は、その方が言う範囲に含まれていたかもしれません。
同調しないことへの怒り
その方はおそらく、コロナに対して相当の恐怖におびえていたのだと思います。だから同じように恐怖している人のツイートには共感して、とりあえずは「仲間がいる」ことに安心したのだと思います。
けれどもそれで、コロナ感染のリスクがなくなるわけではありません。
ところが気が付けば、こんなにコロナにおびえているのに、一言もコロナについて語らない人がいることに気付いたのでしょう。
その方からすれば、その物言わぬ姿勢が自分の姿勢があまりに違うので、怒りがこみあげてきたというところのようです。
でも、何か癪に障ることを言われたのならともかく、何も言わない(ツイートしない)人になぜ怒りがこみ上げたのでしょう。
ある意味では同調しないことに対する怒りです。
それはあわてふためいている自分がどこか、通常の状態ではないことをうっすらと感じていたからであろうと思われます。
また、もしかするともっと恐ろしい情報がある可能性を考えてのことでしょうか。
知りたくもあり、知りたくもない
ではいったい、その「物言わぬ(ツイートしない)どこかのだれか」の余裕(にその方から思えたこと)はいったいどこから来るのか、知りたいようでもあり、知りたくないようでもある。黙っていればいいのだろうけれど、その気持ちをあらわにすればもしかしたらヒントがわかるかもしくは、「そうだそうだ」と賛同する人が増えてこの不安な気持ちが消えるかもしれない・・おそらくそんなところでしょう。
なぜコロナ不安を一切口にしなかったか
そのときは、そのとき
私はそのたまたま流れたそのツイートを見ても、当然無反応だったわけですが、あの時なぜ、ほとんどコロナ不安のようなツイートを一切しなかったのかを語ってみたいと思います。
結論を言うと
「そのときは、そのとき」
と思っていたからです。
それは一つに、すでに一度命の危機を経験したことも大きいと思います。数年前に命の危機を経験したので、命というものは生かされているものであり、最終的には自分でコントロールする種類にはないことを経験したことが根底にあったかもしれません。
素人が半端に発信できることはない
同時に、まだわからないことが多いコロナに対して素人の私が発信することは何もなかったからです。素人でもメンタルをツイートすることはできたでしょうが、不安だといえば不安を助長するだけだし、不安でないといえばずい分と偉そうに見えるからです。
いずれにしても、当時私に語れることは何もなかったのです。
互いに利のあることだけ語る
ブッダのことば: スッタニパータ (岩波文庫)に書いてある話ですが、ブッダは『自分にも相手にも利のあることだけを語りなさい。』という趣旨のことを言っています。
いうまでもありませんが、ここでいう「利」は利己的の「利」ではありません。当事者だけでなく世の中全般にわたって利のある方向性のことです。
いたずらに不安な気持ちを語ることに、何のメリットがあるのでしょうか。もしかすると口にすれば落ち着くという方がいるかもしれません。
けれども私は経験上、言葉として口から発してしまうと、自分が心に思っているだけの状態より10倍くらい感情が大きくなると思っています。
だから不安なのであれば、口にはしないほうがいい。口にしたり、ましてやツイートという形で文字にあらわしてしまうより、心でなんとなく思っているほうがまだましなのです。
それはたとえば夫婦、同僚、親子、友人・・などどんな場面でも同じです。例えば思っていることを口にするとその時は一見、すっきりします。
けれども一度口から出したことばは、活きて活動を始めます。利のある言葉なら発信してもよいですが、そうでないことばは結局、自分にはねかえってきます。
それはツイートも同じです。ブログもほかのSNSも同じです。
さいごに
今回は、「不安がらない人に対する怒りの気持ち」に関する話をしました。結論を言うと、「何を考えているかわからない」ことへの新たな不安であり、堂々巡りに陥っている状態です。
同時になんでも口に出して言えば良いということではなく、互いに利のあることだけを口にするようにしたいと考えます。
口にすれば一時的にすっきりしたり、互いの気持ちを共有できた気になれますが、互いに透明な利のない一時的な現象長続きしません。結局のところは広く長い目で見なければならないと考えます。
今回の話が、何らかのヒントになればさいわいです。