簡単に暮らせ

ちゃくまのブログ。女性ミニマリスト。合理的な家事、少ない服で暮らす、家計管理、お金、捨て作業のコツ。好きな事をして生きる暮らしの追及

脱・幸せ論のススメ・「幸せかどうか」なんて、考えなくていい



こんにちは ちゃくまです。このブログは暮らしに関することをつづっています。

・ミニマリスト的な暮らし方 ・家事を簡単にする工夫 ・お金に関する管理方法(筆者はFPです) ・世間に惑わされない生き方 ・・など。お役に立てたらうれしいです。

はじめに

誰もが幸せになりたいと思っています。反対に幸せでなくなることを恐れています。

ではそもそもですが、なぜ幸せでなければならないのでしょうか。

また幸せとは一体何でしょうか。そして、幸せを求める理由はどうしてでしょうか。

もくじ

 

幸せを求めるのは当たり前のことか

幸せを求めるのは当たり前だと思うかもしれません。誰でも不幸せであるより、幸せな方が良いのは当たり前です。

けれども、

「幸せでなければならない」

と思うからこそ、そこに葛藤が生まれる。だから

「幸せでない」

という苦痛を生み出しているのではないか。そう思うようになりました。

幸せとはどういう状態か

幸せとはどのような状態でしょうか。ちなみにウィキペディアにはこのように書かれています。

幸福(こうふく、希: εὐδαιμονία、羅: felicitas、英: happiness)とは、心が満ち足りていること[1]。幸せ(しあわせ)ともいう。人間は古来、幸福になるための方法に深い関心を寄せてきた。

出典:ウィキペディア

幸福に関する書物は古典にもいろいろあります。

幸福について (光文社古典新訳文庫)

アラン 幸福論 (岩波文庫)

幸福論(ラッセル) (岩波文庫)

いずれも少し前に読んだのですが、内容を全く覚えていません。困ったものです。

一般的な幸せのイメージとは

難しい話はさておき、私たちが幸せと言う言葉を聞いて浮かぶイメージとは

  • 家族で一緒にピクニックに行く
  • 家族で誕生日を祝う
  • 友人達と一緒に旅行に行って楽しむ
  • 病気ではない
  • お金の心配がいらない
  • 職場の同僚とうまくいっている

「幸せ」のイメージは、経済的にしばしば利用される

…などのイメージです。これらの幸せのイメージは、いったいどこから来るのでしょうか。ひとつにはテレビや映画、ドラマ、CMなどで見たイメージが結構大きいと思います。

ここで気付くのは、「幸せ」はしばしば経済的な利用に使われやすいということです。幸せのイメージがテレビや映画で刷り込まれ、それを手に入れなければならないと潜在意識に植え付けられます。

その結果、「それを手に入れなければ不幸せである」と、誤った価値観に苦しむ羽目になります。

客観的に幸せそうでなくても、幸せな人はいる

一方で、家族全員揃って日曜日にピクニックに行けなくても、十分に幸せを感じることはできます。

つまり実際のところは、家族揃ってピクニックに行こうが行くまいが、幸せとは無関係です。

先ほどに挙げたことが全て、実際の幸せとは無関係です。例えば、病気になってもその人が幸せではないとは限りません。

もちろん病気をしないに越したことありませんが、体が健康で、病気をしていなくても心が苦痛でいっぱいな人います。

一方で病気をしていて、健康でなくても、心は安定していて実質幸せを感じられる人もいます。

お金がないより、あったほうが自由が利きますが、お金がなくても幸せな人はいっぱいいます。反対にお金をたくさん持っていても、幸せを感じられない人もいれば幸せを感じている人もどちらもいます。

つまり、実際の状況と幸せの有無は無関係です。

幸せでなくてはならない?

ところが私たちは多くの場合、時に

「幸せでなくてはならない」

とどこか怯えている節があります。

そして一般的に描かれている幸せのイメージについても、必ずしもその状態が幸せと同じとは限りません。

ではそのようなバランスは、一体どこから来るのでしょうか

それはおそらく、
「他者よりも幸せでなくてはならない」
という、ある種の脅迫観念です。

誰から見ても幸せだと思ってもらわなければ、自分が惨めであるような気がするからかもしれません。つまりそのような場合はいわゆる「マウンティング」を自分に課しているようなものです。

ただ淡々と過ごせばいい

実際のところ、幸せでも不幸せでもなく、ただ淡々と地味に日々を過ごすことができればそれで充分なのです。

ところが一度、

「幸せでなければならない」

という思い込みに支配されてしまうと、そこに新たな苦しみが生じます。実際のところは生身の人間が生きていれば、客観的に幸せではないような状況が次々におきます。

後は当人の解釈次第です。ですので実際は、同じことが起きても幸せとも不幸せとも感じなければそれまでです。

何かが起きた時、

「幸せか、幸せでないか」

という判定を下す行為そのものが、自分を苦しくさせるのです。

「幸せかどうか」なんて、考える必要はない

「幸せかどうか」

なんて考える必要がありません。いえ時に、例えばお風呂に浸かった瞬間、

「あ~幸せ~」

と感じることはあるでしょう。せいぜいそのように感じる瞬間が、たまにあれば十分なのです。

「幸せかどうか」を意識するから苦しくなる

もし、自分が

「幸せでない」

と感じることが多いとすれば、それは幸せの意識しすぎが原因です。

幸せは意識するほどに自分と程遠くなります。反対に意識しなければ、たまにお風呂に浸かったような何気ない瞬間に、

「幸せだな~」

と感じることができます。

さいごに

最近は何かと不安を感じる人が多いようです。同時に幸せというものを意識的に獲得しようとする様子も垣間見えます。

一方で幸せは、求めれば求めるほどに、意識すれば意識するほどに遠ざかっていく雲のような存在です。

反対に幸せというものは普段はすっかり忘れているくらいでちょうどいい。すると何気ない瞬間にふと、

「あ~幸せだあ。」

と感じるときがあります。幸せというものはそのくらいに些細な瞬間に感じられれば十分すぎるくらいのもの。何とかして獲得しよう、手に入れようと思えば思うほどに、逆に遠ざかってしまいます。

普段は幸せというもの存在を、意識しないで淡々と地味に暮らしていれば十分なのです。