簡単に暮らせ

ちゃくまのブログ。女性ミニマリスト。合理的な家事、少ない服で暮らす、家計管理、お金、捨て作業のコツ。好きな事をして生きる暮らしの追及

肩書を手放して生きる・部分、時間限定でもいい。母、妻、嫁、娘、長女、女性、年齢・・



こんにちは ちゃくまです。このブログは暮らしに関することをつづっています。

・ミニマリスト的な暮らし方 ・家事を簡単にする工夫 ・お金に関する管理方法(筆者はFPです) ・世間に惑わされない生き方 ・・など。お役に立てたらうれしいです。

はじめに

今回は、

「時間限定、部分的にでもいいから、自分の立場の肩書を外して生きてみよう。」

という話をします。

肩書とは

本来、人は自由に生きられます。もちろん、家族がいれば相応の対応をする必要があるし、やりたいとか、やりたくないとか、好きか嫌いかなんて言っていられない場合も多々あります。

一方で実は、それ以外の時間については自由に行動していいはずなのに、なぜか自分で肩書を強く認識してそれに縛られていることがあります。

肩書とは例えば・・

母、妻、嫁、娘、長女、女性、50代(年齢)、病・・

などです。

こうした広い意味での肩書を自分で気にかけて制限してしまうことを、時間限定でもいいから、外すようにしたいと思ったのでした。

母という肩書きを手放す

まあ、これは、子育て期間はともかく、社会人ともなれば基本、母が子に対してすることは何もない。

ところが母という立場を長年経験したがゆえに、ときにうっかり「心配してあげている」という大義名分のもとに、実際は権力に近い空気を行使しようとしていることになりかねないから注意している。

子から何かアドバイスを求められたら応じるし、見かねた場合は何かこちらの思いを口にすることはある。この場合難しいのは、本人が助言をしてほしいのにためらっているのか、助言がプラスになるのか、プラスにならなくても気持ちがうれしいということがあるのかは、ケースバイケースでわからないこと。ここに教科書的な確実な正解はない。

とはいえ、子が成人または社会人になってもなお、母と子という肩書と立場を引っ張りすぎるのは野暮というもの。というのは、母という肩書をあまりに強く意識すると、自分は二の次になり、結局誰も望んでいないのに自分が母であるがゆえに我慢してきたということになりかねない。

だから子がすでに成人または社会人になった今は、母という肩書はうっすらと「とりあえず」持つくらいでいい。

妻という肩書を手放す

妻という肩書を意識しすぎると、どういう不都合が起きるだろう。それは夫の世話を焼きすぎること。

「妻だから夫の出張の衣服や小物をいそいそと準備してしかるべき。」

というような行動様式になりやすい。これは子育てと同じで、夫が年を重ねても「自分の身に周りのものを自分で用意できない」

という悪循環をもたらす。また、夫、妻という肩書を意識しすぎるとイメージが先行する。そして仲の良い夫婦のイメージを描き、その様子と少しでも違うと不安を抱くようになる。ただでさえ、一人でもイメージと実際は違うのだから、二人となればもっと違って当たり前。

結婚30年を経過したが、いわゆる円満の秘訣はお互いに期待しないことだと痛感する。期待しないというのは「出世を期待しない」というような期待ではない。例えば「結婚記念日には察して食事の予約くらいはしてくれるもの。私のことを大切に思っているのであれば」みたいな期待のこと。

つまり「夫なんだからこうあるべき」「妻なんだからこういうもの」と、自分が勝手に抱いたイメージを相手に押し付けないこと。各自の普通はそれぞれ違う。同時に夫婦だからと言って何もかも一緒に行動する必要はない。共通の趣味もいらない。

むしろ共通の趣味があったりすると、かえって煩わしいかもしれないとさえ思う。私と夫はことごとく、違う。好きなテレビ番組の傾向も違う。好きな食べ物も違う。読む本の種類も違う。夫の本棚に並ぶ本はことごとく興味がない。それは夫も同じ。まるで感覚がちがう二人だから、足りない部分を補い合えているのかもしれない。

嫁という肩書を手放す

嫁という肩書は、結婚する前から私の中ではとうに捨てていた。結婚した時、最初に戸惑ったのは夫の両親が予想以上に保守的な考え方の人だったこと。それは同時に私を息子の妻というより嫁という肩書を強く意識していることを意味する。

もちろん同居は結局、いろいろありする予定が流れた。けれども保守的な考えについていけず同居していないのに一時、私は相当参った。よく乗り越えたと今更ながら思う。

嫁という肩書。これはもう、現代日本では死語にして良いと思う。

娘(男兄弟のいない長女)という肩書を手放す

10年前くらいに、実家の母が私のことを周囲にこう言っていたらしい。

「長女なんだから、自覚をもってもらわないと」

いったい、なんのことかというと、母は墓参りとかそういうことに熱心な人。だからその流れで自分たちの墓のことも

「長女としてきちんと段取りしておいてほしい」

という意味。けれども今のご時世、長女だから次女だからということは無関係。けれどもまだ親世代はそういう考えができない。

実際は近くに住んでいる妹が何かあると具体的な段取りをしてくれていて、本当にありがたい。それは夫の両親の時も同じで、義両親の思惑は私たち夫婦にあったけれど結局は夫の弟夫婦が具体的な段取りをした。夫の弟夫婦もできた人で、一切文句を言ったりしない。こちらの場合も本当にありがたい。

結局、夫も私も長男、長女でありながら、最終的には弟、妹に実際の負担があったことになった。それは長男、長女、次男、次女、という肩書を意識していたら事は円満に進まない。

私たちの場合は、良い意味で夫の弟も私の妹も肩書を意識しないでくれたから、丸く収まっている。もし肩書を持ち出されたら、夫も私も苦しくてやっていられなかっただろう。

代わりにこちらが費用を負担しても、それ以上に夫の弟は負担が大きいと感じてたかもしれない。本心はわからない。けれどもそれで何とか円満に事を収めた。

女性という肩書を手放す

最近改めて思うのは女性であるが故の制限の多さ。もちろん男性にすれば男性だからこその負担などの思いもあるかもしれない。けれどもそれでも思うのは、例えば旅動画で途中、ネカフェに宿泊する様子を見たりすると、やはり男性は有利だと思わざるを得ない。

男性なら着替えも簡単。飲食店も新幹線もトイレは男女共通のことが多いが男性は何も考えずに入ることができる。

また、女性は人気のないところ、夜や早朝一人で歩くのは支障があることが多い。病以前は一人で低山に登ったりしていたが、当時も常に周囲の気配には神経をめぐらせていた。山そのものに登る緊張より、人間の気配のほうが怖い。それで当時はたまたま中高年夫婦が近くを歩いていると、安心して歩けるので、必死でさりげなくついて行ったりした。

今は夫が付いてくるようになったので、当時の緊張感はないことが多い。それでも時に思うのは

「男性だったら、もっとこういう行動もとれるのに」

ということが多いこと。とはいえ女性に生まれたからそれはどうにもならない。女性の肩書。若いときは若い(女性)という緊張感があり、年を重ねれば無関係かというと、今度は年を重ねたが故の「弱い」という弱点にとってかわられただけ。女性という肩書は手放してもっと自由に出歩きたいけれど、これだけはどうにもならない。

最近、「(女性に)わざとぶつかる男」の話題を本で知ったが、周りに人がいてもそういう事例もある。女性は男性より基本弱いので、外したくても外せない女性という肩書を守るべく、事前に防備しすぎてしすぎることはない。女性であるが故の行動の制限はやむを得ない。年を重ねると一層油断できない。

「50代」「5〇才」を手放す

年齢を意識するのは行政の書類と医療関連だけでいい。そもそも年齢に対した意味はないからだ。

確かアメリカでは履歴書に年齢を書く欄がないらしい。それどころか性別の記入もないらしい。一方で日本はどうでしょう。まずは年齢、ですね。それも他人から聞かれるとか興味を持たれる以前にたいていは自分で「今日から〇才」のように年齢をかなり意識しているケースが多い。

年齢って確かに行政の管理をするには必要だろうし、医療を受ける際も必要かもしれない。数字だけ同じ年でも、人によって生き方も見た目も千差万別。こうなると年齢っていかほどの意味があるのか。

百歩譲って女性は50歳前後に体調が急変する。それでいろいろ悩まされることが多いから男性よりも年齢をいやでも意識してしまうのかもしれない。けれどもそれはさておき、だからと言って自分で年齢を理由に制限をかける必要は本来ない。例えば身近なところでは

「おばさんなのに、この服装はイタイのではないか?」

みたいな気の使い方こそはおかしい。年齢はあくまで目安で、行政、医療などが管理するにおいて必要であるに過ぎない。年齢を他人に聞いても意味がないし、数字の年齢ではなくその人の生き方が年齢なのだと思う。

持病を理由に制限することを手放す

「肩書」の一つに病がある。もちろん病のことは注意しなければならない。とはいえ過剰に気にしすぎては、できるかもしれない行動を自分で制限してしまう。もちろんこれは自分の場合。

例えば私の場合数年前の病で、必要以上に慎重になりすぎている面がある。もしかすると病を理由に及び腰になっているだけではないのか。ふと、そう思うことがある。もちろんある程度の制限はかかるけれど、過剰に注意するのはやめてみたい。

さいごに

今回は、肩書を手放して生きるという話をしました。肩書というと会社の役職のようなイメージを持つと思いますが、ここでいうのは母、妻、嫁、娘、長女、女性、50代・・のような役割のことです。

思いのほか気が付けば肩書に縛られてしまいやすいものです。肩書はたまたま、便宜上あるものであり絶対的なものではありません。とはいえ簡単に放棄したり手放せるものではありませんが、部分的、限定的、精神的に手放すことは誰にでもすぐにできます。

何か不自由さを感じている原因が実は自分を取り巻く肩書が原因だということはよくあるものです。特にまじめで誠実な人ほど、肩書にしばられやすいでしょう。

ただこれは環境も結構影響していると思います。肩書に厳しい環境だと、否が応でも反応して「それしか答えがない」と縛られやすいですね。それから長女だったりすると、親などから価値観を知られやすい。

私の出身は地方なので、育った環境は縛りが強いんです。だけどそういう価値観に幼いころから違和感を抱いていました。考え方の慣習が存在しても自分の考えは自由です。

参考になればうれしいです。