はじめに
今回は、
「努力をやめよう。」
という話をします。
努力をするとそれが目的になり、ついには無力感を覚えます。最近無力感、虚無感、むなしさなどを感じるとしたら、「努力」が原因かもしれません。
「努力をすることの何がいけないの?」
きっとあなたは、そう思ったことでしょう。それでは私のある体験を例に挙げます。
アップルウォッチのアドバイスにも腹が立つ
努力を目的にしてしまうと、アップルウォッチからのアドバイスにでさえ、ピキッ!と感情が先に出てしまうんです。
私は健康上の運動を可視化するために、アップルウォッチを利用しています。アップルウォッチを使うと設定により、自分の運動効率が客観的にわかります。
例えば
- スタンド
- エクササイズ
- 距離
- ウォーキングペース
などです。
これにより、自分の運動効率がどの程度であるかとか、以前と比較したデータを知ることができます。
そしてアップルウォッチは、その成果をほめたり時には注意を促します。ほめられるときは良いのですが、注意を促された時が問題です。
自分としてはかなり、いっぱいいっぱいで、「がんばって」運動している(つもり)のです。今日は雨が降っていたけどそれでも「がんばって」歩いてきた。
つかれているけれど「がんばって」すぐに家事をした。炊事をして、掃除をして、片付けまでした。・・え?それなのに
このトレンドを良い方向に変えたいなら、毎日もう少し椅子から立ち上がり、体を動かしましょう。
ダメ出し~!この表示を見た瞬間、心が折れそうになりました。
- これ以上、もっと頑張れっていうの?
- 私が体を動かしていないとでも?
- アップルウォッチ、はずそうか
感情的になってしまいました。
でも、ここで一呼吸おくことにしました。
それで冷静な判断をもう一度してみます。
これ以上、もっと頑張れっていうの?
これ以上、もっと頑張れっていうの?→そんなことを言っていません。アップルウォッチは客観的事実のデータに基づきアドバイスしているだけ。
「このトレンドを良い方向に変えたいなら」
と前置きしているだけです。私は良い方向に変えたいのか?変えたくないなら現状維持でもOK。変えたいならもっと動く。
私が体を動かしていないとでも?
動かしているつもりが動かしていないわけです。午前中は動いているけれど午後からはPC作業、読書などで座っている時間が長い。30分目安に立っていましたが、それ以上に座っている時間が長いから総合的にみて動けていないというわけです。
アップルウォッチ、はずそうか
どうしても負担になるなら外す選択もあると思います。けれども上記が理由の感情で外すというならバカバカしいですね。
運動成果ではなく、努力という視点に傾いていた
アップルウォッチのアドバイスに腹を立ててしまった私です。なぜそんな感情を持ったかというと、それは運動効果ではなく努力をいう行為に傾いていたからだと気付きました。
アップルウォッチでデータを管理している目的は、努力成果ではなく結果を重視するためです。結果を見て今後の改善点などをさぐり、問題点を編み出すためでした。
ところが私は完全に目的をはき違えていました。だからアップルウォッチがほめてくれないので(がんばっているのに)すねてしまったわけです。これではその辺の子供と同じです。
努力メインは他者の視点を意識しやすい
何より努力メインの視点は、他者を意識しやすくなります。なぜなら努力は形に見えにくいからです。
けれども他者を意識した場合は、努力が見えやすいんですね。例えば、
- ○○さんは、毎朝早く出勤しているのを見た。
- ○○さんは、毎日得意先に顔を出している。
- ○○君は、毎日花に水をやっていたのを見た。
- ○○ちゃんは、毎日遅くまで学校に残って勉強している。
・・のように。この行為を当の本人が努力を意識していたかはわかりませんが、この話題を出す人は、当事者の努力をほめています。
けれども残念なことに、これらの「努力」が期待する結果を出しているかはわかりません。
他者の視点を意識すると心が折れやすい
このような努力を、仮に本人も意識していた場合、知らず知らず他人からほめられることが目的になるケースもあります。
それで思う結果が出なくて、も本人が満足していればまだよいのですが、そうでないこともあります。
それは努力で他人から認められる快感を一度味わってしまうと、結果が出なくてもその問題点を考えなくなってしまうのです。
問題点や改善点を考慮することが一番大事なことです。けれども時に努力がほめたたえられすぎなために、努力に改善の余地があることを思いつかないまま、同じことを繰り返していきます。
例えば子供が、勉強というとノートをきれいに書くことだと思ってしまった場合、結果として時間をかけて勉強(実際はノート整理と努力っぽいこと)しても成果(成績が上がらない)ということがありそうです。
(もちろん、ノートをきれいに書くことは汚いより良い面もあります。ノートの意義と活用法は多岐にわたります。ここではあくまでざっくりとした一般例として挙げます。)
努力よりするべきは結果へ到達する方法を考えること
努力をしている時というのは本来の達成したい目的があるはずです。努力よりするべきは「結果へ到達する方法を考えること」なはず。
ところが先ほどの私の例でいえば、知らず努力して満足感を得ることが目的になる場合があります。
すると本来の「アップルウォッチのデータ」を「努力の確認」に利用してしまうんですね。
ところがアップルウォッチがやりたいのはそんなことではありません。成果の手助けです。だから客観的データを基にしたアドバイスを表示します。
データとアドバイスの内容を客観的に受けて、改善点を考えなくてはならないんです。
このように半自動的に客観的事実とその改善という形で物事を見れば、そこに「心が折れる」という図式は一ミリも発生する余地がありません。
成果達成のために淡々と歩むだけだからです。
さいごに
今回は、
「努力をやめよう。」
という話をしました。
努力をするとそれが目的になり、ついには無力感を覚えます。最近無力感、虚無感、むなしさなどを感じるとしたら、「努力」が原因かもしれません。
たとえば私はアップルウォッチからのアドバイスに、ちょっと腹を立てて落胆もしました。なぜそんなことになったかというと、私が結果ではなく努力の評価をされていないことに落胆したからです。
けれども努力を目的にしてしまうと、そこには他者の視点を意識して本来の目的を見失いやすいのです。
けれども目的と改善を中心にすれば、淡々と進むだけなので心が折れる余地はありません。
もちろん、子供や学生、若者など、人生経験の少ない人はある程度努力する大切さを味わう経験は必要です。
努力をメインにするやり方を考え直すヒントになればさいわいです。