はじめに
冬は(冬だけでなく夏も同じくらい大変だけど)身体的に緊張感のある季節です。
あくまで私個人の事情ですが、日々身体の状態に神経をとがらせるような状態に、疲れを感じていました。
そんなときにふと、自分の口から出たのは
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
といううろ覚えの言葉でした。
なぜに今、宮沢賢治?
たまたま映像で見た真冬の雪。そのさなか小さな旅行に出かける人。それを見て、
「あ~、真冬の北海道をものともせずに旅できるような、堅牢な体の持ち主になりたいなあ。いや、そもそも私は雪がほどほど積もるところで生まれ育ったから、このくらいの雪は平気だったのになあ。」
そんなことをつぶやきながら、(目の前には夫がいたので独り言ではありません・・)
「いや、まさにその心情だよ~」
と、続けました。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
まさにこの出だしで始まる詩の通りだったのです。(部分的に)
そのふと口から出た宮沢賢治の詩ですが、小学校か中学校ででも暗記でもさせられたことがあったのでしょうか。よく覚えていません。ただ、教科書に出ていたような気もします。
慾(よく)ハナク
決シテ瞋ラズ(怒らず)
イツモシヅカニワラッテヰル
あれが欲しい、
これが欲しいと物にほんろうされない。
『慾(よく)ハナク』
というところはミニマリストの価値観っぽい。
どんな状況にも冷静に平穏な心を持ち、
暗い表情やひきつった顔をしないで
静かに笑みをたたえている。
(周囲の人が安らぐような笑み)
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
この個所は現代に照らし合わせた場合栄養が足りているかは疑問があるとはいえ、
現代に置き換えたとすれば、過剰な食事をしないで、必要な栄養素をシンプルに食べるという解釈でよいのではないでしょうか。
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
普通の人にとって(自分も含めて)関心はすべて自分事です。ところが宮沢賢治は
自分を勘定に入れないけれども、まるで他人が自分を見ているかのように熟知している。そしてそのことを忘れない。
推測ですが、宮沢賢治も自分を勘定にいれてしまいがちなので、客観性を持つことを忘れないようにしたいと思ったのではないでしょうか。
自分にとって苦しい箇所
けれども次の箇所を読むと、個人的におなかがキリキリ痛くなります。痛いを通り越して苦しくなります。苦しいでは表現しきれない。特に前半の箇所が。
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
後半の箇所はケンカじゃないけど、例えば「母親のグチ」に関して、以前はそれなりに話を聞いていましたが、今は体力が持たず無理です。
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
いつの時代も不安は尽きない
以下の箇所は、
「ヒドリ」が日照りだと解釈します。
「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」冷害と解釈します。
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
宮沢賢治は裕福な家に生まれたとの説があるので、この辺はよくわかりませんが、それは現代に生きる私たちも同じです。飢える経験はしていないけれど、コロナや情勢不安にあおられておろおろしている状態は形が違うだけで同じです。
クニモサレズ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
この箇所でもっとも驚くのは『クニモサレズ』です。なぜかというと、前2行は言ってみれば「立派な人物像」とも解釈できるからです。
- 人に笑われてもいい、
- ほめられなくてもいい。
・・みたいな感じは想像できます。
例えばブログ村でランキング上位になろうとする行為とかを追求しないで、家事をしても誰に感謝されるわけでも褒められるわけでもないけれど、つまりは平々凡々で目立つこともない。
ところが『クニモサレズ』は違います。前2行とは比べ物になりません。だってイやな人ですらない人物ですから。人に嫌われることすらされない人物ですから。これは圧倒されます。いわゆる影が薄いとか、毒にも薬にもならないような人とか、そんな感じでしょうか。自分の存在意義を、「これでもか!」というほどに捨てきっているんです。
この一言には打ちのめされました。
変な話、一見これは単なる自虐感と勘違いされる恐れもあります。例えば最近では「社畜」という言い方なんかがそれに近いかもしれません。
けれどもこの場合の『クニモサレズ』は似ていると思われる恐れもありますが、まるで違うんですよね。
前半~中盤はいわゆる「立派な人間像」ですよね。欲張らずに他人のためになることを率先して実行する人。そして自らは裕福な家の生まれであっても、身近な農民(貧しい人)の憂いを自分事としてとらえています。
ところがそんな「立派な人間の鏡」のような人物がそれを周囲に理解されたり褒められたり高評価されることもない。それどころかときに「ミンナニデクノボートヨバレ」てしまうこともある。ところが宮沢賢治は、
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
と言い切っています。いやいや凡人の私は、なんだかんだ言って
「いいことしたら、いいことあるよね。」
と、無意識レベルで見返りを小さく期待してしまいます。電車で席を譲ったら「神様が見ているかも」「そしていいことあるかも」とつい、考えてしまうもの。というより「この状況は席を譲らないとなんて思われるかな」という気持ちもあるかもしれない。
ところが宮沢賢治はまるで違うのです。「いいことあるかも」という見返りを小さく期待する気持ちどころか「デクノボー」と呼ばれることを期待さえしているのです。期待しているというより、そのくらいに一切の見返りの気持ちを捨てているということでしょう。
『雨ニモマケズ』には続きがあった
そして初めて気付いたのですが、『雨ニモマケズ』には続きがあったのです。ここからの文は全く見たことがありません。
けれどもこの7行の存在の前提は、さっきの『クニモサレズ』にあるとここで気付くことになります。教科書にこの7行を載せてしまうと、しゅうきょうっぽくなるから省いたのでしょうか。
とはいえ、なぜ宮沢賢治が『クニモサレズ』と言い切るパワーがあったのかという理由が、。すんなりと7行の詩の存在を知ると合点がいきます。
宮沢賢治は島地大等訳の『漢和対照 妙法蓮華経』を読んで、その中の「如来寿量品」に大きな感銘を受けたそうです。
以下の続きの文はその関連もあるようです。
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
それぞれの詩(?)の頭についている「南無」は(お釈迦様などに)帰依します。という意味に解釈するとします。
意味を調べて以下のように解釈しました。
四菩薩(しぼさつ)
上記の7行の詩のうち、以下の4つは四菩薩(しぼさつ)と言い、「四名の菩薩」
のことだとわかりました。東京タワーの近くにある増上寺にも4つは四菩薩(しぼさつ)がの像があるそうで、写真を見たら見覚えがありました。
南無無辺行菩薩・・無辺行菩薩
「仏の教えは限りないものであったとしても、必ず学びつくそう」という願いを持っています
南無上行菩薩・・上行菩薩
釈迦が法華経を説いたとき、仏の寿量の永遠を開顕するために現われ、末法の世にこの経を広めることを付嘱された四大菩薩の一人。日蓮はみずからこの菩薩の再誕と自覚して法華経の布教活動を行なった
(出典:コトバンク)
南無浄行菩薩・・浄行菩薩
浄行菩薩とは法華経に出現する菩薩様で、水が垢や穢れを清めるがごとく、煩悩(苦しみのもと)の汚泥を洗い注いでくださる水徳をお持ちの菩薩様です。
出典:日蓮宗ポータルサイト
南無安立行菩薩・・安立行菩薩
「衆生の数は無数であっても、必ず一切の衆生を救ってみせる」という願いを持っています。
多宝如来、妙法蓮華経、釈迦牟尼仏とは
四菩薩(しぼさつ)関連以外の残る3つは
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
になるわけですが、(「残り3つ」という書き方は失礼かもしれませんが、あくまで覚えやすいように区分した便宜上ですのでご容赦下さい。)それぞれの意味は・・
南無多宝如来
多宝如来(たほうにょらい)仏教の信仰対象である如来の1つ。サンスクリットではプラブータ・ラトナ Prabhūta-ratnaと言い、「多宝」は意訳である。法華経に登場する、東方の宝浄国の教主。釈尊の説法を賛嘆した仏である。多宝塔に安置したり、多宝塔の両隣に釈迦牟尼仏と合わせて本尊(一塔両尊)にしたりする。
出典:Wikipedia
とのことです。
南無妙法蓮華経
妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)とは法華経(ほっけきょう)というお経のことで、(妙法蓮華経)に帰依することのようです。
南無釈迦牟尼仏
釈迦牟尼仏とはお釈迦様のことです。
雨ニモマケズ 風ニモマケズは省略されている7つこそがメインなのではないか
私がこの7つの言葉(?)に出会ったのは全くの偶然でした。というより、不思議なことに、たまたま宮沢賢治の詩の一部が頭に浮かんだのです。
そしてその流れをブログにまとめておこうと思い、詩を調べていたらラストに全く知らなかった7つの言葉に出会いました。
これは果たして偶然なのでしょうか。いいえこれは偶然ではなくて必然なのだと思いました。この言葉に導かれたのです。・・なんだかこういう言い方って、変な新興syukyoみたいですが、そういう意味ではなくて、「こういうことがあるんだな。」と驚くとともに、あらためて宮沢賢治の詩を下記のラストまで続けて把握してみようと思いました。
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
改めて最後まで続けて読んでみると、『雨ニモマケズ 風ニモマケズ』はラスト7行の言葉がベースにあり、そのうえでの詩なのだということがわかります。
諸説あるでしょうが、個人的にそのように解釈しました。
さいごに
偶然浮かんだ宮沢賢治の有名すぎる詩ですが、知らない7行の言葉が隠れていたことに驚きました。
その前提として最も驚いたのは
『クニモサレズ』
でした。その理由はラスト7行の存在を知り、合点がいきました。
同時に言葉は人の思いを時代を超えて共有できるツールだということに改めて感銘を受けました。