実際に子供を育てて痛感したのは、子供の行動は100%ではないけれど、「ある程度生まれ持った性質にも左右される、しつけや環境でもままならないことがある。結果は確率である。」ということです。友人知人のお子さんを拝見していても、親のしつけ以前に、性質そのものが物わかりが良くて、落ち着いていて聞き分けがよい子・・は現実にいます。当然ながら、その反対もいます。
「出来る子」も「出来ない子」も全ては「たまたま」
ところがたまたま親の力量でなくても結果が良いと「親のしつけが良いから」と判断されます。それはその反対もしかりです。
賞賛される人の親の「子育て法」が参考にならない理由
よく、有名なスポーツ選手や偏差値高い大学を卒業させた母親に対して「○○流子育て法」なる本があったり、テレビでエピソードが紹介されます。そのたびに私は「それは、たまたま」と思っています。反対に、良くない事件の親が「なぜ、そんなことをするに至ったのか。」とその原因が子育てにあったかのような、母親に原因があるような流れの番組があります。私は、それについても「それも、たまたま」と思っています。
子育ては、原因と結果が一致するとは限らない
いずれも、「原因があって結果がある。」と思いたいのは当然です。良くないケースの場合は、その原因に自分らが該当しなければ、安心できるからです。結果が良い場合は、「私の子育てが良かったからヨ・・オホホ」と満足できるからです。いずれの場合も、我が子の状態が望ましい結果にあれば運が良かっただけであり、悪い場合は運が悪かっただけであるとしか言いようがないと思っています。実はスピリチュアル的な運」ということではありません。ここで言いたい「運」とは単なる「確率」だと思って下さい。
「親に感謝するな。」と我が子に言ってあります。
私は息子に「親に感謝するな。」と言っています。同時に「人や地球に迷惑を掛けない範囲」という条件付ですが、「自分がやりたいことを思う存分好きなよう。」と言っています。「親」つまり私と夫に気兼ねして行きたい場所に行けなかったり、やりたいことを我慢して欲しくないのです。また、「出来ない理由」や「しない理由」に「親」でごまかすかもしれない可能性を今から排除しているんです。さらに、「親が子供を育てるのは当たり前のことだから、感謝などするな。その代わり、もし、子供を持ったら責任を持って育ててね。」と言っています。世間の慣習にとらわれた生き方をして欲しくないのです。そんなところにお金と時間を使うなら、自分のために使って欲しいのです。将来の話ですが、本人が元気で好きなことをして暮していてくれたら、わがままに生きてくれたら、親である私にとって、それが一番の喜びです。