はじめに
今回は、「倫理の問題とどう向き合うか」をテーマにした本を紹介します。
もくじ
- はじめに
- もくじ
- なぜ今、「メタ倫理学」についての本を読むのか
- 「メタ倫理学」って何?
- 倫理の問題とは
- 理想像基準
- 倫理の問題は通常、 重要性基準と理想像基準で説明できる
- 行為基準
- 見方基準
- 著者について
- さいごに
なぜ今、「メタ倫理学」についての本を読むのか
現代は、様々なテクノロジーの進化が激しく、それに伴って取り巻く環境も「先へ先へ」進めることばかりが先行します。
そうしたなかにありながら、問題そのものではなく、「問題をどう考えるか」をとことん考えてみる。一見、時代に逆行するかに思えるメタ倫理学ですが、実は「先へ先へ」の時代だからこそ、より不可欠になるのがこの学問だと考えます。
例えば本書で事例に取り上げられる遺伝子操作の問題や、ハラスメントや差別、肉を食べない話もそのひとつです。
遺伝子操作の問題では、科学の進歩に人の考えがついていくのに追いつかない状況です。グローバルな世の中になると、ハラスメントや差別の問題が浮上しやすくなるでしょう。
また食に関することや各自のマナーや常識をどう解釈するかなど、 実はこれまで以上に考え抜かなくてはならない問題は山積みです。
このようなメタ倫理学の基本の本を読んでおくことは、これからの時代を生きるについても不可欠だと考えました。
「メタ倫理学」って何?
本書によれば、このようなテーマは「メタ倫理学」という学問分野に属しているそうです。
一方でそうするとこの分野は、
「頭の中で考えたもので、役に立たないのではないか?」
と悩むことになりがちなのは、著者も例外ではなかったようです。ところが実はそうではない。著者は授業をした学生さんから
「言葉や先入観にとらわれていたと気づいた」
とコメントをもらうことがあるそうです。つまり本書で扱う「メタ倫理学」は、即効性があるわけではないし、わかりにくい。けれども、
「私たちの日常を少し良い方向に進める一助になる、そう考えてもいいのではないか、と今では思っています。」
と著者は本書の中で言っています。
倫理の問題とは
倫理の問題を考える前に、その意味を考えるという趣旨の章です。倫理の見方については様々ありますが、現代倫理学では、以下の4種類に分類されるそうです。
- 重要性基準・・生にとって重要で深刻なものを示すもの
- 理想像基準・・理想に近づくことが倫理的に優れたことだと示すもの
- 行為基準・・良い意図にづく行為を示すことが優れたことだと示すもの
- 見方基準・・世界の見方にかかわるものが倫理だとみなすもの
と言われてもいまひとつピンときませんよね。でも心配はいりません。
この本は、わかりやすく丁寧な説明がされています。具体例もあるので、理解はできます。私も読む前は不安でしたが、なんとかイメージすることができました。
ただしもちろんですが、だからといって、それが持続して完結するわけではなく、さまざまな疑問は湧きます。
こういう事は、一度で理解しようとするものではないし、自分の頭で考える事が大事ですから、それは当然です。
重要性基準とは
フットの主張について
重要性基準ではイギリスの哲学者、フィリッパ・フットが挙げられています。この人はオックスフォード大学で教鞭をとり多大な功績もある研究者だそうです。
有名なマイケル・サンデル教授の白熱教室の「トロッコ問題」を案出した人でもあるそう。 当時、この本が話題になりました。
フットは論文でこう述べているそうです。
ある判断が道徳的であるためには、まず、その判断が自分の制御できる範囲の事柄についてのものでなければならない。
・・といわれても、いまひとつピンと来ません。ですが本書には著者が次のように説明をしてくれています。
つまり、私たちにはどうしようもないことではなく、私たちが自分の意志で変えることができるようなものにかかわるのが、道徳判断である、ということです。
例えば天気は、私たちに制御できることではありません。だから道徳的な発言には無関係だという事例を挙げる一方で、「人に親切にすべきだ」などは私たちが制御できることだから道徳的発言だということになるわけですね。
同時に、どの判断の真剣さと優先権のずれにより、両者の間に深い溝が生じることがあるといいます。例えばハラスメントや差別の文脈の事例などが挙げられています。
例えば権力を持った側やマジョリティ側の人にとっては些細なことでも、被害があった側からすると重大な問題であることがあります。
同じ事例を目の当たりにしても「取るに足らない問題」と考える人にとり、これは倫理の問題ではなくなってしまうというわけです。
だから倫理の問題だと考える前提としては「重要で深刻なもの」と認識していることが大前提となるわけですね。
理想像基準
理想像基準では、オックスフォード大学のリチャード・マーヴィン・ヘアという哲学者・倫理学者が挙げられています。ヘアは、第二次世界大戦に従軍して、最後は日本軍の捕虜になった経験の持ち主だそうです。
ヘアのフットへの反論
ヘアは、自身の主著で、フットが述べたような道徳観を批判しているそうです。重要で深刻だから互いに議論する必要がある。ヘアはフットのように中身を度外視せずに重要性だけで判定することに異を唱えているようです。
例えば疲れていても道に迷っている人を助けたり、うそをついてはならないことを勧める場合道徳以外の要素も含んでいます。では何がそうさせるかというと「人としての理想的な在り方」を示すことにあるというわけです。
ヘアの立場の変化
以下に書きましたが、重要性基準を唱えているフットの立場は後年、一部変化を見せています。同じようにヘアも少しずつ変化があるそうです。
「道徳は勧めの力を持つ」主張はキープしつつも、道徳の原則には「優越性」を備えていることの有無が付け加えられています。
その内容をざっくりした言い方に言い換えてみました。つまり「エチケットのような見た目重視のことも実践する意味はある。それは本来の道徳とは無関係だけれども、わたしたちが人らしく生活を送るうえでは、受け入れることですよ。」ということですね。
例えば、食事中には姿勢をただし、箸をきれいに持って食べるようなマナーがあります。これ自体に本来の道徳は無関係です。けれどもだからといって、箸を使わず手づかみで食べたり、ほおづえをついて食事をするようなことをしていると、人としてダラダラして耐えられないだろうな、ということは想像がつきます。一見、無意味に思えるただのマナーでも、人らしく尊厳を持った生き方をするには「ある程度このようなことを受け入れる視点は必要ですよ。」といったところでしょうか。
フットのヘアへの反論
一方で反対にフットは、ヘアに対して論文を通して反論しているそうです。「決して縁石を超えてはならないと信じている人」や、「1時間に3度拍手することを他人にも勧めている人」を例に挙げながら、「このような例を道徳とは言わないでしょう」と、やり返したようです。
けれどもその後、フットの立場には変化がみられたそうです。以前の「中身を問わない」をやめて「人間に(生き物としての人間)良いことが悪いことの背景がある場合のみ、道徳の問題になる」という立場に移行したそうです。
とはいえ、「良いこと」が奪われたり押し付けられそうなときに倫理の問題が立ち上がる点は、初期と変わらないそうです。
つまり重要性基準とは何かについては、フットが譲歩して変化を見せた部分、つまりは(生き物としての)人として大事なものを守るためのもので、「どうすれば良いことを得て悪いことは避けられるか」であると著者はまとめています。
倫理の問題は通常、 重要性基準と理想像基準で説明できる
※ここまで、本書を読んで、重要性基準と理想像基準の内容を知ることができました。著者によれば、倫理の問題は通常、この二つで説明できるそうです。
けれども、本書では引き続きさらにほかの2つの考え方である行為基準、見方基準へと進みます。
行為基準
良い意図による行為なら倫理的に優れたことで、その逆なら倫理的に劣っているとする基準です。
例えば、「ある人が店舗で窃盗をした」なら「してはならないことをした」と記述されます。一方で「持ち出した」なら、問題ない行為と記述していることになります。記述の根拠は、その人の意図に左右されます。
こうした基準には、深刻かどうかとか、理想の有無とは無関係です。実際に出来事をどうとらえて記述するかがかかわります。
アンスコムのトルーマン学位授与事件
ここではこの問題を考えた倫理学者、フットの友人であるエリザベス・アンコムの事例が挙げられています。アンコムの有名なエピソードはトルーマン学位授与事件があるそうです。その内容が興味深いものなのでここに概要を挙げておきます。
アメリカ元大統領トルーマンに、名誉学位を授与する決定が下されようとしていたときのことです。アンスコムは一人、毅然とこれに反対を表明したそうです。その理由は日本にも大きくかかわることなので、知っておきたい話です。
アンスコムが反対した理由は、次のようなものです。
「トルーマンは日本への原子爆弾投下命令を出した人物であり、無辜の人間の大量殺戮を指示した人物です。その行為はたとえ戦争に勝利するためでも決して正当化され得ません。したがってトルーマンに名誉を与えるようなことには決して賛成できない。」
けれどもトルーマンには結局、学位は授与されてしまったのですが、アンスコムのほか、4人が賛同した1人はフットだったそうです。
アンスコムの主張は、まさにトルーマンが下した原爆投下の指示は、大量殺戮という悪い意図で行われたことなので、戦争に勝利はしたが、倫理的に劣っていることである大きすぎる事例といえます。
見方基準
この考え方は、
「世界の中に倫理があるのではない。私たちが世界を見る仕方こそが私たちの倫理だ」というものです。
これもわかりにくいですよね。
本書ではティーカップを買う例を挙げて見方基準の考え方を説明しています。
「正解のティーカップ選び」が従来の道徳
通常、私たちがティーカップを買おうとすると、「正解のティーカップ」を求めてデパートを巡ったり情報を集めたりします。そして「どれが一番良いか」について、値段、価値、評価、使いやすさなどを吟味して決定します。結果としてその眼力やセンスを褒められることがあります。
道徳はティーカップ選びと同じ
著者によれば道徳も「ティーカップ選び」と同じだと言います。目の前にある選択肢の中から、最も道徳的に価値のあるものを選ぶ。結果として正解を選べば「優れた人」という評価が下されるという流れだそうです。
見方基準は従来の道徳とは異なっている
それに対して「見方基準」は従来の道徳とは全く異なった見方です。本書では引き続きティーカップを例に挙げます。
例えば「自宅にあった目立たない色あせたティーカップ」を目にして、折り合いの悪かった亡き祖父を思い出します。さらにティーカップに何の取柄もないことを不満に思いながら目にしていますが、毎日眺めていると気持ちに変化が起きます。欠けは愛嬌、色あせは味、造形の古臭さはユニークといったようにです。
見方基準は正解を探すのではなく対象に真摯に向き合う
結果としてなき祖父への思いもカップへの思いも変化しました。けれどもカップ事態に変化が起きたわけではない。では何が変わったのかといえば、自分の見え方が変わったのです。それは正解ではありませんが、これこそが重要だと著者は本書で主張しています。
見方基準は倫理の重要な前進
つまり倫理でいえばこれまでは正解を出すことが求められていましたが、「見方の倫理」の場合は自分の中の偏見やステレオタイプな見方を離れ、対象を丁寧に見る、すなわち対象と真摯に向き合おうとすることが倫理的に重要な前進だと説いています。
マードックについて
本書ではこのような倫理のとらえ方をした人物として、アイリス・マードックを挙げています。この方はフットの親友だそうです。卒業後は同じ大学で哲学の研究と教育を行い小説を多数発表しているそうです。
トロッコ問題で重要なこと
たとえば「トロッコ問題」は二択から「どちらを選ぶか」という選択の問題ですが、マードックは「見方の倫理」を提唱しているので違った見解をしています。
また、著者によれば、「トロリー問題であらかじめ作成された『2択のどちらが正解か』を考えるのではなく、そもそも自分が巻き込まれている状況が、どう見えるかが倫理の発揮されるところ」としています。
著者について
佐藤 岳詩
一九七九年、北海道岩見沢市生まれ。京都大学文学部卒業。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。熊本大学文学部准教授を経て、現在、専修大学文学部哲学科准教授。専門はメタ倫理学、およびエンハンスメントを中心とした応用倫理学。主な著書に『R.M.ヘアの道徳哲学』、『メタ倫理学入門 ~ 道徳のそもそもを考える』(いずれも勁草書房)。
(アマゾンより引用)
さいごに
ブログでは本書の第一章のまとめを主に書きました。興味を持った方は引き続き本書で続きを読んでみることをお勧めします。
世の中には様々な価値観があり、様々な意見が交差しています。そうしたときに、本書にあるような考え方の道しるべともなる1つの方向性を知っておくことは有用です。
有用と言ってしまうと、損得の違いに思われてしまいますが、そうではありません。例えば、最後に紹介した本書の「トロッコ問題のもう1つの視点」のように、「2択しかない」という考えにとらわれ、「どちらかしか選べない」と思い込むのではなく、もっと丁寧に物事を見ていけば、
『「2択しかない」と思ってしまう状況はなぜ、起きているのか。』
と、根本的なことに気づく可能性が大きくなるとも言えます。