簡単に暮らせ

ちゃくまのブログ。女性ミニマリスト。FP。合理的な家事、家計管理、少ない服で暮らす、お金、節約、捨て作業のコツ。好きな事をして生きる。

「おいしくなくてはいけない」という、思い込みと呪縛を捨てると見えること



こんにちは ちゃくまです。このブログは暮らしに関することをつづっています。

・ミニマリスト的な暮らし方 ・家事を簡単にする工夫 ・お金に関する管理方法(筆者はFPです) ・世間に惑わされない生き方 ・・など。お役に立てたらうれしいです。

はじめに

食べ物は、おいしいに越したことはありません。

けれどもときに、それが負担になることもあります。

たまたま最近、「おいしさ」を求めない食も「アリ」だと気づきました。

おいしいことを求める食習慣は、思い込みの一つでもあったのです。

食を放棄できない

誰しも食事がのどを通らないときはあります。風邪などの病気ではないことでそうなることはあるわけです。

そうしたときでも、人間は食べ物を口にする必要があります。もっとも、少しくらい食べない日があっても、劇的に身体に影響がすぐ出るわけではありません。

けれども一度そのようなことを決行してしまうと、少し時間をおいてその結果が押し寄せてくるでしょう。

そこで結局のところ、無理にでも食べます。幸いに昼食は自分の食事を自分で用意すればいいだけです。

そこで思考停止で調理なしでも、栄養バランスが取れる食事を用意しました。そしてそれを連日食べました。

あまり同じ食材が続くのはよくない気がしたので、多少素材は変えましたが、ベースは同じような昼食です。

そうした食生活を数日続けて気づいたことが、いくつかありました。

おいしさを求める文化

第一に、食事においしさを求める必要性についてです。これまで、食べておいしくあることは必然だと思ってきました。

もちろん、なるべくまずいものは食べたくありません。おいしいにこしたことはありません。けれども必ず毎食、おいしさを求めなくても良いのだということです。

冷静に考えれば、おいしくあることは文化にすぎません。そもそも食べられること自体がありがたいことです。

おなかがすいていれば、何を食べてもおいしいのです。

もっとも、おいしくあることを強調することは単純に外食産業にとって必要なことです。家庭で個人が食べるなら必ずしもおいしくある必要はありません。

けれども外食したり、総菜や何らかのインスタント、レトルト食品がまずかったならば、当然それは非難を浴びたり、売れないということになり企業が低迷するおそれがあります。

平安貴族は食を話題にしなかった

以前何かで読んだのですが、例えば平安貴族は、食べ物を「おいしい」とかなんとか、口にするのは「はしたない」とされていたそうです。

食欲は欲の一種なので、その味わいを口にするのは「はしたない」とされていたということだったと記憶しています。

それがいつしか、日本では食の味わいの感想を堂々と口にする文化に変化しています。

「おいしく食べなくてはならない」という、思い込み

食を語ることが、はしたないかどうかはさておき、

「おいしく食べなくてはならない」

と、思い込んでいたと気づきました。

もっとも本来、おいしいことは、その食べ物に必要な栄養が詰まっていることのシグナルです。

だから太古の時代はそれを食べるメリットがあるかどうか、危険がないかどうかを「おいしいこと」で判断したことでしょう。

まやかしの「おいしいもの」がたくさん存在する現代

ですが一方で、現代では、まやかしのおいしいものがたくさん存在します。

例えば砂糖を含む食べ物や、アルコール、質の良くない油脂を使用した食べ物、小麦粉の大量摂取など、美味しいけれど身体によくない食べ物は多数あります。

昔のおいしいものは素材そのものだったので、一定の栄養素を過剰摂取するようなことにはなりにくかったでしょう。

けれども現代は、人工的に加工されたものが多数存在します。結果として一定の素材を大量摂取することになりがちです。

つまり「おいしさ」は太古のように、食べるメリットを判断する基準にはならなくなっているのです。

むしろ依存性を高めることさえあります。いくらでも食べ物が手に入る現代日本では、食べ過ぎ、依存、偏食、加工時間、手間など、デメリットに成り果てていることが多くあります。

おいしく食べるための調理という手間

そしておいしく食べるために、調理というひと手間が功を奏することがあります。

旬の果物や野菜のように、あまり手間をかけなくてもおいしい食品は存在しますが、多くは何らかの調理が必要です。中には調理が安全に食べる手段であることもありますが、通常は調理は負担になります。

調理は自分以外の誰かが担ってくれれば自分の負担はありませんが、その場合は費用か「何をどんなふうに調理しているか不明」であるので、信頼がどの程度できるかの判断も必要です。

毎日違うものを調理する負担

結局、多くは自分で調理するか、家庭の家事担当の主婦などが調理をすることになります。

そして食事の献立を連日、飽きないようにおいしく調理して用意するというのは、想像以上に判断と体力のエネルギーを消費します。

「おいしい」

には、毎日違うものを作り飽きさせないことも含みます。

ここでもまた、

「おいしくなくてはならない」

という呪縛が、家事担当者に精神的にも体力的にも負担を強いることになります。

家事を担当している主婦の体力と気力が安定している場合は良いのですが、ときにそうはいかないことがあります。

せめてパターン化すれば負担は減る

ネット上で時おり、パターン化した食事をしている方を見かけることがあります。

推測ですがそのような方というのはおそらく、慢性的に大変なことを抱えているのかもしれないと感じました。

実際、自分も心理的負担がある一過性の出来事を目の当たりにしたとき、食事をワンパターンにしか用意できなかったし、ワンパターンの食事に救われたからです。

負担があるからといっても、食べなければ自分が倒れてしまいます。そうなるわけにはいかないから、無心でワンパターンの食事をひたすら食べるのでした。

するとただ、毎日の食事をパターン化しただけで、調理の際の負担

  • 何を作るか
  • 何を食べるか
  • どんな味付けをするか
  • バランスが取れているか
  • 家族に満足してもらえるか
  • 予算は問題ないか
  • 量は問題ないか
  • 栄養バランスはとれているか

などの無意識に考えている事柄を考えずに済むのでした。

「おいしくなくてはならない」を捨てる

連日の家事負担と、自分が食べるものについて無意識に

「おいしくなくてはならない」

という思い込みに長年、思い込んでいました。けれどもたまたまのきっかけで「おいしくあること」を一時的にでも捨てて昼食時にワンパターンの食事をしてみました。

すると想像以上に手間も思考も楽にできる自分に気づきました。

ドイツのカルテスエッセン

ドイツにはカルテスエッセンという食習慣があります。コールドミールとも言います。ドイツの食で温かい食事はランチだけで、しかもそれは、仕事中なため外食だそうです。

www.kurase.com

夜は火を使わないチーズ、ハム、パンで済ませ、家族がリラックスして過ごす時間とエネルギー削減の効果があるそうです。

ドイツの人は、日本みたいに常においしく食べることに重点を置かない食文化なのですね。

まとめ

さいごに

食べ物は、おいしいに越したことはありませんが、現代ではおいしさはメリットにならないことがあります。

考えてみれば「おいしさ」を求める食は、思い込みと単なる習慣でもあったのです。

試しに一時期、おいしさを優先せず、パターン化した昼食を自分で食べましたが、想像以上に楽であることに気づきました。

おいしい食事にとらわれるのをやめることで、今まで気づかなかった真実が見えることがあります。

参考になれば幸いです。